◆民衆の信仰史は評価されるべき
そんな彼らを例えば長崎純心大の客員教授・宮崎賢太郎氏は〈隠れていないし、キリシタンでもない〉〈別の名称によって区別することが適切〉として、あえて〈カクレキリシタン〉と命名。また意外なことに『沈黙』の著者・遠藤周作までが生月のことを、〈古い農具を見る以上の興味もない〉とエッセイで一蹴し、広野氏はそこに〈「近代」から「前近代」を睥睨するような視線〉を見て取るのだ。
「私も遠藤周作は好きですが、冷たすぎますよね? ただそうした分析とは全く違う次元に島の信仰はあり続けた。特に教会文化に親しんで育った私の場合、常に異端を作り、排除すらしたキリスト教の傲岸不遜な一面に、思いを致さざるを得ないんです」
自身、中学の時に洗礼を受け、「否定も肯定もなく」教会を離れた氏にとって、教義すら曖昧な信仰を愚直に守る人々の姿は、自らを映す「鏡」でもあった。
「それもどんなに磨いても曇りのとれない鏡というか、ある部分が見通せると、別の部分が見えなくなることの連続で(苦笑)。そもそも人は理屈抜きにその信仰を求めるのかもしれず、わからないならわからないまま、ありのままの姿を見て書くことが、特に生月の場合は大事な気がしたんです」
そのありのままが先述の書類では歪められ、前提となる報告書の執筆者も宮崎教授らカトリック側の学者のみ。その宿敵(?)にも本書は取材を試み、否定も肯定もない視線が出色だ。