「私が生月に通い始めたのは2017年ですが、その信仰が目の前にあるのに、です。これはある元検事の受け売りですが、家宅捜索でもなぜかそこだけ抜けている帳簿とか、消されたものにこそ手がかりがあるらしい。
ただし今回の謎が解けるのは、生月町博物館『島の館』の中園成生学芸員と出会い、生月が内外の教会からどう扱われてきたかを知る、ずっと後のこと。かくれキリシタンの末裔がこの21世紀に現存すること自体、私も全く知らなかったんです」
一般に潜伏キリシタンとは、秀吉や江戸幕府の弾圧を生き延びた信者を指すが、明治6年には禁教が解かれ、さらに戦後は信者の多くが教会に復帰。それでもなお背を向けたのが生月だった。
バチカンは1949年、日本に特使を送り、生月をカトリックに復帰させようと図る。だが、島民は聖地・中江ノ島の岩から採る聖水をめぐり〈拝み比べ〉した結果、カトリックを拝んでも採取できなかったとしてこれを拒否。日本語とポルトガル語が混ざるオラショを唱え、神仏とも共生し独自の文化を築く彼らは、教会側からすれば異端でしかなかった。
「生月では宣教師の追放後、迫害を恐れてオラショを文字ではなく耳に刻んできた。ただ驚いたことに地元の人にも意味はわからないらしい。その意味が不明な呪文を質素な御堂で延々唱え、隣には神社や寺まである信仰スタイルを、彼らは先祖や親が守ってきたから自分も守ってきたことに尽きるんです」