鬱屈した気持ちを抱えながらも業務の一環としてさまざまな一般企業を訪れ、働く女性の姿をつぶさに見学した。そこで思い知らされたのは、職場における女性の扱いがいかに不当であるかという現実だった。
「同じ仕事をしていても、男女の賃金と昇進には大きな格差がありました。男性が10年働けば主任や係長になって昇進の道が開かれる一方、女子社員の待遇は変わらない。それどころか、10年たたないうちに辞めてしまう。女性にとっての仕事は結婚までの腰かけと決めつけられて、“30才定年”も当たり前だったんです」(赤松さん)
当時、日本は高度経済成長の真っただ中。
「この経済成長も、女性の労働力を搾取することで成り立っているのではないかと思うようになった。しかし、当の働く女性たちはそのおかしさに気づいていなかった」(赤松さん)
女性が搾取や差別をされる職場環境を何としてでも変えたい――そう願う赤松さんが着目したのが「法律」だった。
「法律さえできれば、世の中は大きく動きます。当時の私は法律を作る立場にいたから、何とかして世の中を変えようと、女性の働く権利を記した男女雇用機会均等法を立案しました」(赤松さん)
法案を国会に提出するため赤松さんは連日、政財界の大物を訪ねて法の意義を説いて回った。だが男社会に染まった彼らの反応は鈍く、ある大企業の社長は、「女性差別があるから企業が成り立つんだ」と公然と口にした。
現実として、当時の働く女性の多くは会社の「お飾り」だった。上智大学在学中の1980年にレポーターとしてデビューした安藤優子さん(59才)が振り返る。
「『女は男の横で黙ってニコニコしながらうなずいていろ』という時代でした。私も『インタビューする時はミニスカートで行け』と当たり前のように言われていました」
あ然とするほどの無理解が横行する中、赤松さんは粘り強く説得を続けた。
「『女性を差別して何が悪い』『若いうちに結婚相手を見つけてやればいいんだろう』と悪気なく言い放つかたがたを、『世界を見てください。日本以外の先進国は、どこも女性の働く権利を法律で認めています。日本経済が女性の搾取と犠牲の上に成り立っているのは、世界に対して恥ずべきことです』と説得しました。これをほぼ毎日続けると、少しずつ法案への理解が広がっていきました」(赤松さん)
決死の努力が実り、1985年に男女雇用機会均等法が成立。歴史的な一歩となった。
「私にとっても生涯の大仕事でした。搾取されているのに気づいていない女性にも、これでわかってもらえると思いました」(赤松さん)
※女性セブン2018年6月21日号