わが国のこうした独立自尊の立場による外交を可能にした客観的条件は何だったか。それは、その頃、隋が隣の強国、高句麗と戦争状態にあったことだ。隋が日本との関係を悪化させると、高句麗と日本が連携して隋に立ち向かってくるかも知れない。
逆に隋が日本をうまく取り込めば、高句麗を挟み撃ちにできる。どちらにしても、隋は日本を粗略には扱えないという“弱み”があった。わが国はその弱みを鋭く見抜いて、大胆かつ細心に対応することで、首尾よく冊封体制からの離脱に成功したのだ。
なお第二回遣隋使の国書にあった「日出ずる処の天子」の語は、仏教に造詣の深かった聖徳太子の知恵によると見られている(東野治之氏)。そうであれば、「天皇」も同じく太子の発案によるのかもしれない。
こうして歴史上、初めて「天皇」が登場する。それは、シナ文明圏からの脱却へ向けて、自立の道に踏み出した対外的な宣言だった。この場面でのわが国とシナ・朝鮮との歴史的な分岐が、後の近代化の際の著しい差異の前提となった。
【PROFILE】たかもり・あきのり●1957年、岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。日本文化総合研究所代表。國學院大學講師。神道宗教学会理事。『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)、『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)など著著多数。
※SAPIO2018年9・10月号