「日ソ関係は岸内閣時代にこじれた。岸首相が日米安保条約を改定して米軍基地を残したことにソ連が反発し、長い間、領土交渉は暗礁に乗り上げた。晋太郎さんは中曽根内閣の外相に就任すると『義父が残した外交課題をなんとしてもやりたい』と交渉再開に力を尽くした。病の身でソ連を訪問し、ゴルバチョフ大統領と会談して来日を実現させたときの様子は鬼気迫るものがありましたが、その1か月後に領土交渉の進展をみることなく膵臓がんで亡くなった。
秘書として訪ソにも同行した晋三氏は父の無念を間近で見てきただけに、日露平和条約を自分の手で締結して安倍家3代の課題に終止符を打つとともに、歴史に残るレガシー(政治的遺産)としたいという思いが非常に強い」
しかし、安倍首相は苦汁を味わってきた。第1次内閣時代は、何もできないまま退陣に追い込まれた。首相に再登板してからは、プーチン大統領と20回を超える首脳会談を重ねるも、進展はなかった。
自民党総裁任期の2期6年では実現できなかったのである。そこで、党則改正で総裁任期を「3期9年」まで延長したうえで3選されると、「4島一括返還」から「2島でもいい」とプーチン氏に申し入れた。
尻に火が付いた首相が残り任期の3年で領土返還というレガシーをつくるための“妥協”ではなかったか。
※週刊ポスト2018年12月7日号