その一つが〈お風呂入り〉。前夜、祇園で強かに酔い、ふと気づくと局部を〈紅白の熨斗〉と紐でリボン結びされていた田口は、それが旦那衆や芸妓たちの悪ふざけだと知る。そして翌日、女将共々田口の宿泊先に詫びを入れにきた芸妓たちは彼に風呂を勧めたばかりか入浴を共にし、田口は40にしてはみずみずしい豆孝の裸を初めて目にするのだ。

「実はこれ、京都では公然の秘密だったらしく、先日も置屋さんで言われました、『まあ林さん。いろいろと書いてもろて』って(笑い)。結局、それが元で田口は豆孝の旦那になるんですが、その話を女将さんが何処で切り出すかとか、細部には徹底的に拘りました。これについては、ある女将さんに聞いて八坂神社の裏の甘味屋さんにしました。そのお店には割烹着姿のお婆さんがいて、奥に個室があってっていう、京都ならではの風情を、作品内で堪能していただければ嬉しいです。

 彼らが選ぶワイン一つにも神経を使いました。名家の方って、高価ならば何でもよしということではないんですよね。昔馴染みの店や、代々の繋がりに重きを置く贅沢さと、人気店を軒並み貸し切りにする今時のIT長者との違いも、私はいい悪いじゃなく、面白いなあと思うんです」

 女も食も既に食い尽くし、情熱を見失ったかのような久坂の造形は、『西郷どん』、『白蓮れんれん』といった清新な時代を描いた従来作とは対照的だ。その凪いだような質感こそが、林氏の目に映る今なのだろうか。

「確かに元気はありませんよね。日本経済も、年金や病気の特集が目立つ最近の週刊誌も(笑い)。ただそれも成長から成熟に向かう通過点かもしれず、ある映画会社の社長さんは、この小説は滅びゆくイタリアの没落貴族を描いたヴィスコンティの『山猫』だ、とおっしゃっていた。

 久坂のように若くて綺麗な女より、心身の成熟を好む価値観が浸透しつつあるのも遅すぎるくらいだと私は思うし、それこそ熟成肉のように、静謐で優雅な退廃に向かって行く人々の姿を、こんな時代だからこそ描いてみたかったんです」

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