「今日の日本に、あるいは“平和”もあり、“民主主義”も“国民主権”もあるといってもいいのかも知れない。しかし、今日の日本に、“自由”は依然としてない。言語をして、国語をして、ただ自然の儘にあらしめ、息づかしめよ。このことが実現できない言語空間に、“自由”はあり得ないからである」(『閉された言語空間』)
◆亡国での皇統持続とは何か
平成元年二月十六日に江藤淳に長時間のインタビューをした。筆者とそれ以前に行なった二回の対談とともに『離脱と回帰と昭和文学の時空間』という対談集としてまとめた。
そこで江藤淳が昭和天皇への深い敬愛と、天皇という存在が世俗的空間をこえた聖なるものであることをとりわけ強調していたことが、今も印象に残っている。崩御の日、皇居前に集い記帳した多くの日本人の姿は、「天皇制」などというコミンテルンの用語(戦後は占領軍当局が共産党のこの用語をそのまま採用し広めた)ではなく、日本文化の本質たる皇統の顕現、昭和帝が天皇として戦前・戦後を生きられたことを何よりも物語っていると江藤淳は指摘した。そして皇統が維持されてきたことの重要さを次のように語った。
「僕は百二十五代、皇統が続いているということの意味で、大嘗祭もあまり形式的に考える必要はないという意見なんです。もちろん大嘗祭は、日本がこれだけの繁栄に浴している時代に、皇位継承に伴う諸行事が滞りなく行われない理由は何もないから、当然行われるでしょう。
それで名実ともに新帝は即位されて、皇統を持続されるだろうと思いますけれどね。過去に皇統が持続してきた間に、大嘗祭が行われなかった例もあります。そうであってもなおかつ皇統は持続してきている。(中略)皇室を廃するということを、日本人は一度もしなかった。(中略)この歴史的事実をわれわれは心の支えにしていくほかないと思うのです」