──松井秀喜さんのエピソードを聞かせてください。
林監督「小学生から、あの黄色いユニフォームに憧れていましたし、入学したら、身体が他の選手とは違う松井さんがいました。テレビで見るように、裏表のない紳士的で温厚な人でした。自主練習は人前では絶対にしない人でした。甲子園に行くと、公園で集まって素振りすることがありましたが、松井さんだけは公園の隅の方で黙々と集中して素振りしていた思い出があります」
──1992年、夏の甲子園で起きた5打席連続敬遠は、グラウンドでどう見ていましたか?
林監督「私は一学年下でショートを守っていました。3打席目ぐらいまでは、敬遠についてあまり深く考えていませんでしたが、4打席目2死ランナー無の時に、明徳義塾さんが敬遠をして、初めてこれは徹底していると思いましたし、甲子園が異様な雰囲気になりました」
──生徒たちに、その頃の話はされますか?
林監督「ほとんどしません。それでも、昨年、大会初日の第1試合のカードを引き当てた時は、『まさか!』と思いました(笑)。松井さんにはいつも気にかけて頂き、昨年は甲子園出場の差し入れに、パーカーを頂きました」
明治神宮大会の決勝で、札幌大谷高校に敗退するまで、石川県大会から北信越大会まで1試合平均6点以上の強力打線と、エース奥川と左腕・寺沢幸多を中心とする総合力で勝ち上がってきた。選抜大会前の前評判も当然高く、初戦は、履正社との優勝候補対決となった。初陣を白星で飾れれば、勢いに乗って、同校初、そして平成最後の選抜優勝も見えて来るだろう。
──9年目を迎えて、監督としての信条は?
林監督「私は山下先生の教えを受けてきましたので、山下先生の『耐えて勝つ』は大事にしています。恵まれた時代に生まれてきた子どもたちが、野球通じて逆境や追い込みに耐えることを大切にして欲しいと思っていますし、常にその考えはしっかり説明しています」
──ベンチに掲げてあるスローガンの中に、「第3期黄金時代をつくる」とあります。
林監督「第1期は山下先生や小松辰雄さん(元中日ドラゴンズ)の甲子園で延長18回を戦った時代、第2期は松井秀喜さん(元ニューヨーク・ヤンキース)や準優勝に輝いた平成最初の時代、その後勝てない時期が続いたので、第3期黄金時代をつくろうということで掲げました。去年のベスト8や神宮大会準優勝など、下地が徐々に出来つつある中で、この選抜で結果を残して集大成にしたいと思っています。そして、それがずっと続くようにしていくのが究極の目標です」
──初の日本一についての思いを。
林監督「皆さんから評価をいただいて、このチームは日本一を狙える位置にいると思っています。その一方で生徒たちには、『選抜32校のうち10番目ぐらいの力だよ。まだ見ぬ強い敵もいるし、分かっていると思うけど、(明治神宮で勝ったけど)広陵の方が力を持っていた』と、話しています」
──選抜でマークしている高校はどこでしょう。
林監督「広陵が一番嫌です。あとは横浜を始め、左投手の良いチームが怖いので、左投手対策をしっかりしてきました」
──甲子園を経験して、全国で勝ち抜くには何が必要だと考えますか?
林監督「甲子園に出場する前から、打てなければ勝てないということです。夏の甲子園の1点の重みは地方大会の3点に相当すると思います。野球にミスは付き物ですが、いかに無くしていくかも大事なことだと思います」
──最後に、平成最後の選抜ですが、決意をお聞かせ下さい。
林監督「この年に結果を残したいです。選抜は投手が良ければ勝てるというのは、もう古いと思います。選抜も打たないと勝てないので、しっかり対策をして、臨みたいと思っています!
【PROFILE】
林和成(はやし・かずなり)/1975年7月23日生まれ。1学年上の松井秀喜氏と1991年夏、1992年春夏と甲子園出場、1998年から星稜高校コーチに就任し、2004年部長となる。2011年からは星稜高校監督となり、2013年、2014年、2016年には夏の甲子園出場を果たす。春の選抜は2年連続で、同校悲願の日本一に挑む。
古内義明(ふるうち・よしあき)/1968年7月7日生まれ。立教大学法学部卒、同時に体育会野球部出身。高校・大学球児向け「サムライベースボール」発行人として、これまで数百校の高校を取材し、アマチュア関係者と独自の人脈を構築。近著に、『4千分の1の名将 新・高校野球学【関西編】』(大和書房)がある。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、テレビやラジオで高校野球からメジャーリーグまで多角的に分析する情報発信。立教大学や早稲田大学エクステンションコースでは、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。