前川が幼い頃から通う長崎・佐世保市のカトリック教会で挙式(1971年)
晴れて夫婦となれば堂々と人目を気にせずにいられる。そんなふうに淡く、まだ幼い恋の延長線上での決断だった。ふたりは1971年8月2日、前川の故郷、長崎・佐世保の小さな教会で式を挙げた。
「最初は入籍だけで済まそうとふたりで話していました。でも、結果的には大人の事情っていうものがありまして(苦笑)。ハワイでの新婚旅行中、都内に戻っての披露宴もずっとマスコミのかたがたが付きっきり。ハッキリいって、結婚式自体が仕事でしたね」
振り返れば、結婚生活自体、実態のないものだった、と前川は語る。
「彼女も飛ぶ鳥を落とす勢いの人気歌手でしたし、ボクたち内山田洋とクール・ファイブも毎日、歌番組をいくつもハシゴ。朝から晩までテレビ局を何局もまわってね。もう、どれが生放送でどれが収録なのかもわからない状態。ふたりともひたすら一生懸命に歌って家に帰る…そんな生活でした。思えば、夫婦水入らずでゆっくり語り合う時間なんてなかったですね」
その年の大晦日、『NHK紅白歌合戦』では夫婦揃って初の競演が目玉となるはずだった。だが、年の瀬も間近にして、前川が自然気胸で緊急入院。急遽、藤が前川に代わってクール・ファイブと共に歌った。
「今思えば、そういう運命だったんでしょうね。ずーっとすれ違い。だから結婚生活も、たった1年で終わってしまいました」
1972年8月12日、おしどり夫婦と呼ばれたふたりの電撃離婚会見。これもまた、「(離婚の理由は)ありません」と、掴みどころのないものだった。
「ボク自身も結婚生活を振り返ってみても“なんだったんだあれは?”って思いますもん。ただね、1年間の結婚生活のなかで、彼女には1円もお金を出させることはなかったですよ」
それは、九州男児の意地のようなものだろうか? 「いやいや、そうじゃない」と、前川が大きく首を横に振る。
「それぐらいしかボクが彼女にしてあげられることがなかったんです。だから、ずっと後になってのことですが、彼女が“清ちゃんがいちばん優しかった”と言ってくれていると人づてに聞いた時はうれしかった。素直にね。
でも、裏を返してみれば、それはボクたちの間に何にもなかったからこそ出た言葉であって。恨み、つらみ、差し障りも何にもないからこそ、そんなふうに思ってくれたんだと思います」
だが、売れっ子同士の早すぎた結婚、そして離婚劇は、少なからずそれまでの音楽活動に影を落とした。内山田洋とクール・ファイブは『そして、神戸』などのヒット曲に恵まれるも、2年連続で紅白不選出。一方、藤も今ひとつヒットが続かず、1974年には喉のポリープ手術というスランプ状況に陥った。藤が芸能界引退を考え始めたのはこの頃からだともいわれている。