健さんの心を開いた小田さんは、1964年に東京で生まれた。学生時代にスカウトされて芸能界に入り、1984年頃から「貴倉良子」の芸名で女優として活動を始めた。『必殺仕事人』(テレビ朝日系)や『水戸黄門』(TBS系)といった当時人気の時代劇にも出演経験がある。
「小田さんは着物の似合う和風美人ですが、女優としてはパッとしなかった。1989年頃からはホテルライターやテレビディレクターに活動の場を広げ、世界を股にかけて取材を行っていました」(前出・テレビ局関係者)
小田さんの経歴で公になっているのはここまで。以後は今回発売された著書を頼ることになる。
同書によれば、1996年3月、小田さんがライターとして、取材で訪れたのが、香港にある香港リージェントホテル(現・インターコンチネンタル香港)だった。そして、この場に偶然居合わせた健さんがスタッフ全員に「高倉健」と書かれた名刺を配り、帰国後に小田さんが香港取材の掲載誌を送本することでふたりの交流が開始。交際に発展したのはその1年後だった。
健さんは1959年に結婚した江利チエミさん(享年45)と1971年に離婚して以来、独身を貫いた。小田さんと交際を始める際には「目立たず過ごしたい」と望み、それに応じた彼女は17年間にわたって「陰の存在」であり続けた。
「長く一緒に暮らしながら旅行に出かけることはもちろん、健さんと連れ立って外食することもただの一度もありませんでした。健さんの親族にも小田さんのことは一切知らされず、ふたりの仲を知るのは事務所の人間1人と小田さんの母親だけで、彼女を家政婦と思っていた関係者も多かった」(前出・テレビ局関係者)
2013年5月、小田さんは「長年世話になった人に財産を残したい」との健さんの意向で養女として正式に養子縁組された。その1年半後に健さんが他界。そのタイミングで小田さんが「謎の養女」として突如世に現れたのだった。
◆彼女とは同じ土俵に上がりたくない
そんな彼女が長い沈黙を破って著した著作に、困惑しているのが冒頭の遺族である。
「本の発売を機に、健さんの遺族に連絡を取りましたが、皆さんご覧になっていないようでした。あるかたは小田さんのことを相手にしない、同じ土俵にすら上がりたくないという印象を受けましたし、別のかたも『まさしく死人に口なしよね』と仰っていました」(前出・森さん)
そもそも健さんの死後、遺族は小田さんの行動を傍観するほかなかった。