あの日、三島の言葉を学生たちはどう聞いたのか。当日、東大全共闘の一人として900番教室に参じた東京工業大学名誉教授の橋爪大三郎氏(71)が振り返る。
「開始時刻から遅れて会場に到着しましたが、教室の入り口まで立ち見が出て人が鈴なりでした。人だかりをかき分けて中まで入り、三島の姿をこの目で見ました。
暴力論、天皇論と話が進みましたが、集まった学生が“三島の言葉を聞きたい”という知識欲を共有し、きちんと彼の話に耳を傾けていたことが印象的でした。私たちは戦後知識人を嫌悪していましたが、三島の言葉には圧倒的な熱量がありました。単なる情報ではなく、命を宿した知識があった。お互いが決して安全圏に立たず、危険を冒して言葉を交わす。そんな張りつめた空気が満ちていました」
全共闘と三島の邂逅は時代の為せる業だった。
敗戦から四半世紀が経った1969年、日本は焼け野原から世界の経済大国となろうとしていた。
高度経済成長を経た日本の国民総生産はすでにアメリカに次ぐ世界2位。日本人は世界から「エコノミック・アニマル」と称された。いざなぎ景気の真っただ中、冬のボーナス総額は当時の史上最高となる2兆4000億円に達した。好景気に沸く国民は「巨人・大鵬・卵焼き」を謳歌し、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』やピンキーとキラーズの『恋の季節』が大ヒットした。
その時代に暗い影を落としたのが、激化する大学闘争だった。
討論会から4か月前の1969年1月、全共闘の学生が占拠する東大安田講堂に警視庁の機動隊8500人が出動、火炎瓶や放水が飛び交うなか実力行使で封鎖を解除した。同年10月、国際反戦デーに合わせて過激派の学生が新宿を中心に各地で機動隊と衝突し、投石や放火で駅の設備や車両を破壊。新宿駅周辺は炎で燃え上がり、1500人以上が逮捕された。