小池氏は違った。1992年の参院選比例区で日本新党から当選した小池氏は、翌1993年の総選挙で衆院に鞍替えし、父と同じ旧兵庫2区(定数5)から出馬する。そこには鴻池氏が現職代議士として地盤を築いていたが、そこに割って入った小池氏は土井たか子氏に次ぐ2位で当選、鴻池氏は落選する。父の人脈を利用するのではなく、逆に戦って蹴落としたのだ。
もう1人の浜渦氏も、小池氏が都知事に就任すると石原都政時代の築地移転問題で都議会の百条委員会にかけられて厳しい追及を受けた。
国会議員となった小池氏は、日本新党時代は細川護熙氏、新進党と自由党では小沢一郎氏、自民党入党後は小泉純一郎氏と時の有力者の側近となり、頭角を現わしていく。
永田町の“出世の方程式”は、実力政治家の子分となり、下積みを経験しながら政治キャリアを積む。自民党であれば、派閥組織の中で政務官、副大臣、大臣とサラリーマンのように年功序列でポストがあてがわれる。ここでも小池氏のやり方は型破りだった。政治評論家・有馬晴海氏が語る。
「閨閥を持たない小池氏は、世襲議員と違って組織の中では出世が遅れてしまう。だから有力者に引き立ててもらったというより、自分から有力者に積極的にアイデアを売り込んだ。サラリーマン政治家ではなく、ベンチャーなんです。だから有力者の力が衰えたり、情勢が変わると踏み台にして別の有力者に乗り換え、自分の力でステップアップしていくしかなかった」
組織の中で出世したわけではないから、決まった後見人もいないし、子分もできない。自らの政治勘だけを頼りにリスクを取って勝負に出る。「孤独な女帝」はこうして生まれた。
自民党が閨閥なき異質の政治家の国政復帰を警戒するのは、父譲りの破天荒な血で政界秩序をかき回されることを恐れているのかもしれない。
※週刊ポスト2020年7月24日号