荒井:それで面白い話で、ニッポン・コレクションという日本映画祭でフランクフルト映画祭へ若松さんと一緒に行ったときに、飛行機の中で隣で映画を見ているんだよ。何を見てんのかなと思ったら、「荒井、これ面白いな」っていうから「なんですか」って覗いたら、『仁義~』なんだよ。「今頃見てるんですか。深作さん、お友達じゃないですか」って言ったら、「おれ、やくざ、嫌いだもの」って(笑)。
『孤狼の血』養豚場の大きな意味合い
井上:あれは2005年か。
白石:30年ぐらいずっと若松さん、深作さんと仲がいいと言っていたのにひどいなあ(笑)。
井上:森さんが『仁義なき戦い』にあまり反応しなかったというのは、やくざ映画というジャンル自体、嫌いだったんですか。
森:いや、嫌いじゃないですよ。でも大学生の頃はもっとウェルメイドなストーリーテリングで見せるみたいな映画ばかり見てたような気がします。
荒井:『ゴッドファーザー』(1972)なんかはどうですか。
森:だめですね。もっと単純に人の機微みたいなものは違うところで描けるんじゃないかなというのがあったから。暴力シーンがひょっとして嫌いだったのかなあ。あの頃はニール・サイモンとかウディ・アレンばかり見ていたから。
井上:へええ、意外。
森:恥ずかしいね。こういう話は。弱点を今、言ってしまったような気がするけど。昔です。もう30年以上前ですから。
井上:でもこういう話っていいですね。高校生の初デートで『仁義~』を見たいって言われて『燃えよドラゴン』を選んだり、ニール・サイモンが好きって三谷幸喜かっていう(笑)。白石さんはどうなの。やくざ映画って。中・高生の時にVシネが全盛でいっぱいやくざ映画があっただろうけど。
白石:当然そこから『仁義~』を見ているんですけど、東映さんも実録ものもわりと早い段階でネタがなくなっちゃうじゃないですか。そこからこの世界観を利用して『資金源強奪』(1975)とか『暴走パニック大激突!』(1976)とか、より劇画化になっていった。それがけっこう好きで、そこからさらに派生していったのが『県警対組織暴力』(1975)で、好きで見ていましたね。
井上:昨日もぼくたち、渋谷ロフト9でトークをやったんですけど、その中で最後に荒井さんが「お客さんはバカ様です」と言ったことに絡んだ人がいて、「映画は娯楽なんだ」って批判されたりしたんだけど、『仁義なき戦い』を見ていても、組織というものがいかに脆弱なものであって、それでも組織に頼らなければならない人間がいかに滑稽であるか。その組織の最たるものが国家で、組織の犯す最大の過ちが戦争であり、戦争の中で一番犠牲になるのが若い人たちだよという。そういうことを、娯楽であるやくざ映画でやろうとしているわけじゃないですか。任侠映画だって、絶対にシャブは売らないという古い価値観を守ろうとする昔ながらの組と金のためなら手段を選ばずという近代的な組織との対決という、近代への抵抗、資本主義へ懐疑をやっている。ある時期までの時代劇だってそうじゃないですか。時代劇の形を借りて、世の不条理を撃つ。そういうことは荒井さんの周囲の映画青年たちは読み取って、映画を見たら同世代で話していたわけですよね。でも、今はそうやって読み取ってもくれないし、読み取れる「何か」を描いている映画もない。娯楽という言葉が完全に一面的になっている。
荒井:当時、映画の見方で、たとえば“企業内抵抗”という言葉があってね、作家が会社のお金で撮る中でどれぐらい会社の要請に抗って、自分の作家性、政治的主張を出しているのか。それが評価の基準だったね。だから深作さんの『誇り高き挑戦』(1962)は、ラストで鶴田浩二がサングラスを外して国会議事堂を見る場面に深作さんの反米・反権力を読んでいくという。国会が悪いという社会性っていうか。だから、昔からやくざ映画という形を借りて、何か言う人は言っていたような気がするね。笠原さんは『やくざの墓場 くちなしの花』(1976)でやくざを描くとき、被差別の問題、在日朝鮮人の問題は避けて通れない。それが描けないなら俺はもうやらないとは言ってましたね。それから『広島死闘篇』で梶芽衣子の役もたしか被差別の女性として書いているんだけど曖昧にされるんだ。
井上:『広島死闘篇』の梶芽衣子は、村岡組という広島の大きい組の組長の姪っ子なんですが、鉄砲玉でチンピラの山中正治(北大路欣也)に惚れてしまう。笠原さんは、村岡一族が被差別部落の出身で、だからこそ梶芽衣子は金看板のやくざである山中に執着するというテーマをやろうとしたって言っていましたね。
森:最初はそういうホンだったんですか。実録だから、実際にそういう人だったわけですか。ああ、それは知らなかった。
井上:しかも『広島死闘篇』の山中に関しては、ほんとうは時間軸でいえば、一作目と同じ敗戦直後なんですね。でもこれからのシリーズ展開もあるし、闇市をもう一度作るのはお金がかかるしで、昭和30年ぐらいからの話にしてくれと会社から頼まれて、戦争に行き遅れた元軍国少年がゼロ戦の代わりに拳銃で予科練の歌を歌いながら人を殺していくという純情が見えなくなった、とやはり笠原さんが書いています。
荒井:『やくざの墓 くちなしの花』でも梶芽衣子がシャブ中になる渡哲也の彼女の役をやるんだけど、在日の設定じゃなかったかな。それで「日本人は信用できない」っていう笠原さんの書いたセリフを、深作さんは「警察は信用できない」って変えちゃうという、そういう壁がある。でも『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』(1975・山下耕作監督)では柳川組っていう在日の強力な組をやってるじゃない?
井上:あの映画も在日という言葉は一言も出てこないけど、ファーストシーンでチンピラ同士の殴り込みの時に、キムチがバーンと飛んだりしますからね。
森:『孤狼の血』だって養豚場がけっこう大きな意味あいで出てくるじゃないですか。もしかしたら、そういうことを匂わせてるのかなってちょっと考えました。
白石:いや、もう完全にねらっています。
荒井:もうちょっとハッキリやろうな(笑)。
井上:『孤狼の血』はレンタルで並んでいるんで、ぜひ、ご覧になっていない方は見ていただきたいんですけど。養豚場に関しては、セリフでハッキリ書いていても、それを切らざるを得なかったとか。
白石:そこまでセリフは書いていないんですけど、やっぱりそういう地域性とかどこからそういうやくざの人たちが出てきたのかって当然突き詰めていくと、そこに当たりますよね。それと『孤狼の血』は、『仁義なき戦い』の世界観をお借りして、昭和63年の正月、昭和と平成の切れ目ぐらいの設定でやっているんですけど、一番、悩んだのは出てくる人たちが戦争をひきずっているかどうかっていうことですね。『仁義なき戦い』は当然、それが如実に当たり前にあって、それが見つけられるかどうかというのが難しかったですね。