「松也が19才のときのこと。夫が腰が痛いというので、検査をしたら、背骨にがんが見つかったんです。自宅からも劇場からも近い、築地の国立がん研究センターに入院して。そこからはあっという間でした。
亡くなるひと月前の2005年11月、夫は舞台に復帰。病院から新橋演舞場に通い、車いすで舞台に立ちました。痛みもすごかったでしょうに『児雷也豪傑譚話』の仙素道人の役を千秋楽まで務め上げました。そんな父の背中を、息子も娘も、見ていたんです」
最後の舞台から1か月後の2005年12月26日、松助は帰らぬ人となった。松助の遺体を前に、盛恵さんは弟子たちに向かって、「あなたたちは主人の弟子だからどこへ行ってもいいのよ」と言うと、弟子たちは「坊ちゃんについていきます」と答えたという。松也は20才にして、一門と家族の生活を背負うこととなった。
松助の急死で生活は一変
「夫ががんになってからは、銀座の自宅から歩いていける築地の国立がん研究センターの個室に入院させていたんです。個室代だけで1か月120万円。同じ時期に、同居していた姑が認知症になり、とても自宅では面倒がみられない状態になり、その入院費用が月に30万円。2人の入院費だけで月150万円が出て行ったんです。さらに夫の保険外の治療費もかかった。2人の闘病費で、お金は使い尽くしていました。
さらには、まだ小学生だった娘の今後の学費も必要でした。お金がなくて困っていたところに、長いつきあいのあった夫の親友が『助けてあげる』と声をかけてくれたんです。そのかたを信じて、持ってきた書類に言われるままに印鑑をついていたら、瞬く間に3000万円をだまし取られてしまいました」
銀座の自宅を売却したお金はその後の生活費になるはずだった。しかし、私立校に通う娘の学費と新しい家への引っ越し資金を払ったらすべて消えてしまったという。
「松也ひとりの稼ぎで一家を養うというのは大変なことです。銀座の家を引き払ってからは、月30万円の戸建てに一家で住んでいましたが、それじゃあダメだというので、月19万円のマンションに“ダウンサイジング”することに決めました。でも引っ越し資金がなくて。結局、知人から80万円を借りました。50万円はすぐに返せたのですが、当時は残りの30万円がなかなか工面できず、しばらくの間、息子が毎月2万円を返済していました」
時給980円のおかみさんに
当時、20才という若い松也の稼ぎだけでは一家3人が暮らしていくには厳しかった。盛恵さんは知人に頭を下げて紹介を受け、銀座の“夜の街”にデビューする。店での時給は3000円。だが、その時期は銀座の景気も底をついていて、客が来ない。入店して1年目、「悪いのだけど……」と、店から“肩たたき”にあってしまう。