竹内は1955年、2男4女の6人きょうだいの三女として、島根県の出雲大社近くにある老舗旅館を経営する両親のもとに生まれた。高校時代にアメリカ留学を経験し、慶應義塾大学に進学。音楽サークルに所属しバックコーラスを務めるうちにその才能を見出され、メインボーカルを担当するようになった。耳に残る伸びやかな歌声と愛らしいルックスが、レコード会社の目にとまり、22才でデビューを果たした。
「最初はアイドルとして活動していましたが、徐々に自分の好む音楽のスタイルにシフト。その過程で、同じレコード会社に所属する先輩・山下さんに相談をしているうちに親しくなったそうです」(別の音楽関係者)
3枚目のシングル『SEPTEMBER』(1979年)では「第21回日本レコード大賞」新人賞を獲得。その後も『不思議なピーチパイ』(1980年)が累計で40万枚を超えるヒットとなり、瞬く間にスターの座に駆け上がった。しかし、その栄光をあっさり手放すかのように、結婚後の竹内は、家庭を最優先した。
「音楽は仕事でなくても楽しめる。でも家庭と向き合うことはいましかできない—そう思った彼女はスーパーで普通に買い物し、移動はバスでしていました。自分のことを“シンガー・ソング・専業主婦”と呼んでいたくらいです」(前出・音楽関係者)
『駅』や『シングル・アゲイン』『告白』などの名曲を生み出したのは子育て中のこと。竹内がその才能を自由に開花させられたのも、公私共にサポートし続けてきた山下の存在があったからだった。結婚後、山下は竹内の全作品のアレンジやプロデュースを手掛けてきた。家族としても仕事仲間としても完璧なパートナーだったふたり。“嫁”としての関係も良好だった。
「達郎さんの実家は、もともと都内のお菓子店。結婚後は達郎さんのお父さんと、まりやさんふたりで釣りに出かけるなど距離が近い関係でした。そのお父さんが亡くなられたのは15年ほど前。落ち込む達郎さんに竹内さんはいつも付き添っていました」(山下の知人)
そんな山下も心配する問題があった。竹内の実家にまつわるものだ。出雲大社の鳥居からわずか100mほどの参道脇に、竹内の実家『竹野屋旅館』がある。140年も続く老舗で、かつて沢田研二(72才)と田中裕子(65才)が結婚披露宴を行ったことでも知られている。だが、ここ数年、この旅館の内部は混迷していた。