「指導者への道」を決断させた鳥谷の存在
卒業後の進路は、社会人野球でプレーを続けたいという願望があった。その思いを断ち切らせたのは、一緒に野球をした“凄い”選手たちだった。中でも鳥谷は、野手としては別格だった。
各シーズンの公式戦が終わると、大学JAPANのメンバーだった鳥谷は合宿や海外遠征などでチームを離れることが多かった。その時には越智が代わりにショートに入り、1番青木、2番越智という打順が組まれた。
意地もあったのか、そこで越智はよく打った。「ポジションを獲ってやる」と手応えも感じていた。鳥谷がチームに戻ると、「越智さん、よく打ってるらしいですね」と声を掛けてきた。その表情から「絶対に負けない」という思いが伝わってきた。そして試合に出場しはじめた鳥谷は、越智を上回る勢いで打ちまくり、シーズンが始まると当たり前のようにショートを守っていた。越智は言う。
「あのレベルになると、こっちがちょっとくらい頑張ったって勝てない。嫉妬とかはなかったです」
それが決断する決め手になった。
「一緒に練習してきて、鳥谷がどんなレベルかはわかっています。自分とのレベルの差もわかる。鳥谷は間違いなくプロに行く選手。その鳥谷と勝負出来るレベルの選手が社会人に行く。そこに自分が行っても、果たして勝負になるのか……」
越智は、もう一つの夢であった指導者の道を目指すことを決める。体育科の教員免許を取得するために2年間、科目等履修生として大学に残ることになった。
生活費を稼ぐためにアルバイトも始めたが、それでも野球の練習がなくなった分、時間の余裕ができた。その時間を使って、自分の引き出しを増やすために、いろんな場所に足を運び、いろんな人と会って話を聞いた。
たとえば当時、毎年のように強力打線で甲子園を席巻していた智辯和歌山。甲子園通算最多勝利の記録を持つ高嶋仁監督(現・名誉監督)の指導を実際に見てみたかった。宿泊費を節約するために自動車で和歌山に向かい、1か月間、車中に何日も寝泊まりした。 日本の高校野球界で最初にメンタルトレーニングを取り入れたとされる浪速高校の小林敬一良監督(当時)の元に足を運んだこともある。
練習を見て、監督の話を聞くだけでなく、帰宅途中に学校近くの食堂に寄る生徒たちと同じ席に座り、本音で会話をしたこともある。そうした時間を過ごしているうちに、自身の経験の中で身体に染みついた「野球とはこういうものだ」という固定観念が次第になくなっていった。
「これまで自分が所属したチーム、宇和島東にしても早大にしても、力のある選手が集まってきて、厳しい規律のあるチームでした。でも、真逆のスタイルのチームもある。いわゆる“管理野球”に対して“自主性野球”みたいな表現がよく使われるのだけど、どちらが正しいということではなく、どちらも勝つための方法論なのだと思いましたね」