初監督業は石川県屈指の公立進学校だった
2年後の2005年、知人に紹介された石川県の金沢市立工業高校で外部コーチとして採用される。
野球部の後援者が経営する会社に午前中勤務し、午後から学校で練習を手伝う毎日。石川はそれまで縁のない土地だったが、高校野球の指導者になれるなら日本中どこに行ってもいいと思っていた。これを機に石川に根を下ろす。
その年、石川県の教員採用試験に合格。小松商業で教壇に立ち、野球部長となる。そして2年後、人事異動で小松高校に赴任。ここで初めて監督の職に就く。
小松高校は県内屈指の進学校で、なおかつ公立校。強くするために有望な中学生をスカウトしたくても、ままならない。「勉強が出来る子がいたら、ぜひ」と中学を回っても、指導者に相手にしてもらえなかった。
また、勉強優先のため練習時間の制約という、選手としても指導者としても初めての経験もした。「年中無休で練習するのが当たり前の環境で育ってきた人間なので、週に一度練習休みを入れることも最初は不安でした。でも、そうすることで逆にパフォーマンスが上がることに気付かされました」と振り返る。
強豪校や、これまで交際がなかったチームでも、連絡すれば、相手校の監督が「越智君の頼みなら」と快く受けてくれた。だから、練習試合の相手には困ることはなかった。胸を貸してくれた監督たちには今も感謝の気持ちがある。星稜、遊学館といった全国レベルの強豪校の壁に跳ね返される中で力をつけ、ようやく甲子園が狙えるようなチームができつつあった就任8年目の年、思わぬ誘いを受ける。