彼にプロフィールを訊ねて驚いたのは誕生日だった。2004年3月27日。つまりあと数日、誕生が遅れていたら、1学年下となる早生まれだ。高校生ぐらいまでなら、早生まれの子は同級生にあらゆる面で後れを取りがちで、それがスポーツならなおさらだろう。プロ野球の歴史を振り返っても、早生まれの選手が少ないことは周知だ。
“ほぼ中学生3年生”という状態で、マッチ棒のようにひょろひょろの体でも当時、140キロに迫る直球を投げ、加えて手先を起用に使って多種の変化球を投じるところもまた、これから月日(トレーニング)を重ねていけば“怪物”に化けていく無限の可能性が感じられた。
父・等さん(44)の身長は173センチで、母・るみさん(44)も162センチと、さほど大きくはない。
「私も家内も、父親が大きいんです。孝太の身長は隔世遺伝だと思います(笑)」
そう等さんは話す。他の子に後れをとらないよう、達が生まれた頃から食事にも気を遣い、カルシウムの摂取を目的に離乳食として煮干しをいったものをすり鉢ですりつぶし、おかゆに混ぜて食べさせたという。
「早生まれの影響が出ないように、家内がそのへんは工夫してやってくれました」
等さんは大阪産業大附属高校の元高校球児で、卒業後は奈良産業大学に進学。社会人の「ドウシシャ」(軟式野球チーム)でプレーを続け、引退後は社業に従事しながら同チームの監督も6年務めた。
長男(孝太)が野球を始めるのは自然の流れだったろう。
「小学校、中学校は楽しくのびのびやればいいと思っていました。本人は小学校の卒業文集に夢はメジャーリーガーと書いていましたけど、思いきり投げて、思いっきり走って。私が難しいことを言うことはありませんでした」
今は無理をする時じゃない
中学時代には硬式野球の泉州南堺ボーイズに在籍しながら、等さんと親交のあるPL学園卒の元プロ野球選手・覚前昌也(元近鉄)の主宰する野球教室にも通わせた。その教室には、1歳上に結城海斗という投手がいた。体は達より小さくても、達より速いボールを投げる少年を、達は憧憬の目で眺めていた。そして、結城は中学卒業と同時に、海を渡ることを決心し、カンザスシティ・ロイヤルズと16歳という日本人として史上最年少でマイナー契約を結ぶ。結城と親しかった達は、プロセスは異なれど彼と同じようにアメリカの大地で野球をしたいという夢をより強く抱く。
しかし、ボーイズでは控え投手に甘んじ、成長痛などもあって、思うようにプレーができなかった。
「中学3年生まで成長痛があって、常に『今は無理する時じゃない』と伝えていました。当時は無名でしたが、私から見ても、可能性がある子だと思っていましたね。私も高校時代には福留孝介がいたPL学園ともやりましたし、近畿大会では智弁和歌山とも戦った。奈良産業大学の後輩には山井大介(中日)がいましたから、プロになるような選手の身体能力みたいなところは私なりにわかっていたつもりです。まず、体が大きい。高い身長によって角度のついたボールが投げられるというのは、投手としてひとつの可能性だし、武器です。体もまだまだひょろひょろでしたから、高校に進学して、体が出来上がってきたら絶対に面白いピッチャーになると思っていました。試合で投げられなくても、後ろ向きな言葉はひとつもかけず、ミスしても怒ることはなかった。『マウンド上でふて腐れた表情をするな』と、マウンドでの表情だけは注意していました」
今は無理する時じゃない──それは奇しくも、準決勝で敗退後、達が語った言葉である。野球経験者の父のアドバイスを受けて、成長しきっていない肉体で無理を重ねる危険性を達は中学時代から叩き込まれていた。
それにしても、名門・天理に身を置く高校1年生が、高卒でアメリカに行くという夢を語ることはなかなかできることではない。