そうして短い「北玉時代」にピリオドが打たれた。最大のライバルである玉の海が亡くなった後、北の富士はケガによる途中休場を繰り返すようになり、昭和49年(1974年)7月場所で32歳にして引退した。2人はライバルとしてお互いを強烈に意識し合っていたと、前出・萩尾氏は振り返る。
「北の富士さんは天才型というか、もともと持っている素質が違う。うちの横綱は努力型でしたね。普通、お相撲さんは走ったりはしないが、うちの横綱は神宮外苑をランニングしていました。ランニングを取り入れたのはうちの横綱が初めてで、力士がジャージを着たのも初めてだった。運動学も勉強していたので、神宮外苑の芝の上を走らないとヒザを傷めると言っていました。
2人はライバルでしたが、普段は仲がよかった。北の富士さんは“玉ちゃん”と呼ぶんですよね。2歳年下のうちの横綱は“北の富士さん”と言っていました。ところが、土俵に上がるとお互いに厳しい相撲を取っていた。うちの部屋には(元大関の)貴ノ花さんがよく出稽古に来ていましたが、何番も何番も取るんです。私を含め同じ部屋の弟弟子たちは稽古相手というより、横綱の体のほぐし役でした(苦笑)」
玉の海は身長177センチと、力士としては恵まれない体格だったが、そのぶん稽古には凄まじい熱量で取り組んでいたという。
「僕らが新弟子の頃に見ていた稽古量は、今の力士たちが見れば腰を抜かすんじゃないですか。うちの横綱が稽古場に下りると、シーンとして誰もしゃべらなかった。関取相手に2時間以上稽古をするけど、息が上がらない。まさに胸を貸すという感じでした。亡くなった年は、大鵬さんの年間最多勝記録(81勝=当時)を塗り替えようかという状況でしたから、本当に残念でなりませんでした。弟弟子に対しては、強くなるためのヒントを与えたうえで、“あとは自分で考えろ”というタイプだった。親方になればいい弟子を育てたと思います」(萩尾氏)
前出・杉山氏も「玉の海が親方になって後進の育成にあたっていれば、王道を行く力士を育てていたのではないか。心技体が備わった、相撲の伝統を受け継ぐ力士を育てたと思いますね。それだけに、やはり早くに亡くなったことが悔やまれます」と評した。
全盛期を迎えようという時に亡くなったこともあるが、玉の海は歴代横綱の中で唯一、初土俵以来休場なしで皆勤を続けた力士だった。横綱がその地位にしがみつくように休場を繰り返す令和の大相撲を見たら、どう思うだろうか。