チューリッヒ大学に勤めるロジャー・ニッチ

チューリッヒ大学に勤めるロジャー・ニッチ氏

 この発見は、2003年5月22日の『ニューロン』誌に発表される。

 私が『アルツハイマー征服』の取材を始めたのは2002年で、12月にサンフランシスコのデール・シェンクのラボを訪ねると、開口一番、デールは、ロジャー・ニッチらの2002年の論文を引きながらこう言ったものだった。

「重要なのは、抗体を生じた20人には、ひとりも急性髄膜脳炎を発症した患者がいなかったということなんだ。つまり抗体が原因で起こった副作用ではない」

 このようにしてワクチンではなく、マウスに与えたワクチンによって生ずる抗体をヒト化したものを与えるという「第二世代」の抗体薬のアプローチが始まるのである。

 バイオジェン社のアルフレッド・サンドロックもロジャー・ニッチの論文に感銘を受ける。実はアルは、ロジャー・ニッチとハーバード・メディカル・スクール時代に師を同じくしていた。メディカル・スクールの医療関連機関であるマサチューセッツ総合病院で、2人は、ジョン・グロードンという神経内科の教授に師事していたのである。

 ロジャー・ニッチのこの論文がきっかけとなって旧交が復活する。アルはロジャーを、バイオジェンの本社のある米国ケンブリッジに招いて講演をしてもらった。

 ロジャー・ニッチとクリストフ・ホックが優れていた点は、そもそもアルツハイマー病の抗体を人間はもとから持っているのではないか、と考えた点だった。チューリッヒ大学附属病院の膨大な血漿のサンプルライブラリーの中から、高齢でもアルツハイマー病にならなかった人、アルツハイマー病になっても進行が遅かった人の血漿をしらみ潰しに調べていき、ある自然抗体を発見する。時に2006年12月。これが「アデュカヌマブ」である。

 この「アデュカヌマブ」の権利を買って臨床試験(治験)を行なったのが、バイオジェン社のアルフレッド・サンドロックということになる。

「ほら、言ったとおりだろう」

 デール・シェンクはフロント・ランナーとしてAN1792のあと、第二世代の抗体薬「バピネツマブ」の治験に入っていた。2005年にはフェーズ2が始まっている。しかし、結果が出ず、2007年から始まったフェーズ3でも失敗。結果、開発部門は閉鎖され、会社は消滅してしまう。

 デールが「バピネツマブ」の治験を行なった時代は、まだ脳内のアミロイドの量を測るアミロイドPETが普及しておらず、デールの治験は当時の技術的条件に厳しく制約されていた。実は治験に入った2割から3割の患者がアルツハイマー病の患者ではなかったことも後にわかっている。

 デールは、会社がなくなったあと、医療ベンチャーの会社をたちあげるが、すぐにすい臓がんにおかされ、2016年9月に逝去する。その直前の2015年3月、「アデュカヌマブ」のフェーズ2の結果がニースの学会で発表されるが、「アデュカヌマブ」は抗体薬として初めて、認知機能を含めた評価項目を達成していた。その結果を、かつての同僚からの電話で知ったデールは、こう言ったという。

「ほら、言ったとおりだろう(This is what supposed to be)」

 その夜、「悔しくないの?」と妻のエリザベス・シェンクに聞かれたが、静かにデールはこう話したという。

「本当に嬉しいんだ。自分が信じていたことが、たとえ他人の手であれ実証されたのだから。何よりも患者とその家族にとっていいニュースだ」

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