タリバンは「女は家を守るもの」として女性の就労を禁じ、外出する際は全身を覆うブルカの着用を命じた。これらの規則に違反した者には公開のムチ打ち刑などを科した。10才以下の少女には教育を受けさせてはならないと定め、歌やぬいぐるみまで禁止した。
そうした女性不遇の時代に私は、タリバンに隠れて民家の一室でこっそりと文字を習う少女たちを取材したことがある。見つかったら大変なことになるのにもかかわらず、肩を寄せ合って勉強に励む姿に感銘を受けたものだ。
フレンドリーなタリバン兵士
当時、タリバン統治下の街を訪れると、「常に誰かに見られている」というヒリヒリとした緊張感が漂っていた。
一方でタリバンの厳しい統治によって犯罪が減少し、治安がよくなったこともまた事実である。
私は日本人ジャーナリストとしてはきわめて珍しく、世界的に野蛮で残虐とされたタリバンを直接取材した経験を持つ。2001年6月、秘密のヴェールに包まれたタリバンを取材するため、私は陸路でアフガンに入国した。果てしなく続く荒野や渓谷はずば抜けて美しく、思わず違う惑星に来たのだろうかと感じた。
東部の都市ジャララバードから車で4時間、彼らが10人ほどで共同生活する、山中の掘っ立て小屋へと向かった。そこが、タリバンの前線基地となっていたのだ。
山道で遭遇したタリバンの武装兵は裾の長い伝統的な民族衣装を身にまとい、足元にはペラペラのサンダル。手にはソ連製の古い自動小銃を携えており、“こんな貧弱な武器で本当に戦えるのか”と思った。
目的の小屋にいたタリバンの兵士たちは、強面だがレンズを向けると意外にもフレンドリーで、空に向けた軽機関銃を撮影用として盛大にぶっ放す“サービス精神旺盛”な若い兵士もいた。
当時、通訳兼案内人のアフガン人がふと漏らした次の言葉が忘れられない。
「タリバン兵は地雷探知機を使わず、ひたすら地雷原を歩く。地雷を踏んで死ぬか負傷したら、次の兵士が前へと進んでまた地雷を踏む。そうやって地雷原を突破していくんです」
山の麓で出会った、任侠映画の親分のような50代のタリバン司令官も「私は自分の人生を聖戦に捧げる」と静かな口調で私に語った。
脆弱な装備しかもたない彼らが短期間でアフガンを制圧したのは、まさに死をも恐れぬ精神の賜物だった。
だが、私がその小屋を訪れた3か月後の9月11日、米国で同時多発テロが発生した。首謀した国際テロ組織「アルカイダ」をタリバンがかくまっていたとして、米国が主導する有志連合軍がアフガンを攻撃し、タリバンは権力の座から、一瞬で転げ落ちた。