坂本から本田さん一家への贈り物は、この16年間で相当数に達する。たとえ親友でも、死後にその家族と10年以上にもわたって交流を続ける人は少ないだろう。歌姫同士の絆はどのように生まれたのだろうか。
「絶対にまた舞台で歌うんだ」
本田さんは高校1年生のときに東京・原宿でスカウトされ、1985年に『殺意のバカンス』で歌手デビュー。翌年リリースした『1986年のマリリン』が大ヒットした。時代は1980年代のアイドル黄金期。同年には中山美穂(51才)、斉藤由貴(55才)、浅香唯(52才)らがデビュー。堀越高校の芸能コースでは南野陽子(54才)、いしのようこ(53才)、永瀬正敏(55才)らがクラスメートだった。
デビューした年、錚々たるメンバーを抑えて本田さんは日本レコード大賞などの新人賞を総ナメにし、トップアイドルの座につく。坂本と本田さんの交流が始まったのは、デビュー後すぐのことだった。デビューは本田さんが2年早かったが、すぐに意気投合したという。
「美奈子さんはアイドルとして売り出されましたが、もともとはオーディションで演歌を披露していた。アイドルではなく、歌手として活動したいという気持ちが強い人でした。冬美さんも作曲家の付き人となる前は梅干し工場で働きながら、休憩時間に倉庫で歌の練習をするなど、下積みを経てデビューをつかみ取った苦労人。歌への思いが強い2人が、“戦友”となるのに時間はかかりませんでした」(レコード会社関係者)
美枝子さんも2人の友情をこう振り返る。
「お互いの舞台やコンサートを見に行ったり、番組で共演することも多かったみたいです。私がお姉ちゃんの地方公演を見に行ったときに冬美ちゃんが来ていて、公演後に食事したこともありました。いつだったか冬美ちゃんが海外旅行に行くときは、お姉ちゃんが電話口で『危ないから気をつけてね』と本気で心配していました」
本田さんはミュージカルにも挑戦。1992年には『ミス・サイゴン』、1997年には『レ・ミゼラブル』など数々の作品に出演し、ミュージカル女優としての地位を築いていく。一方の坂本も名曲を世に送り出し、1994年には『夜桜お七』でNHK紅白歌合戦の紅組のトリを務めるほどとなっていた。
「普段は無邪気な美奈子さんが妹で、冬美さんがお姉さんのようでしたが、歌手としてお互いを心から尊敬していましたね。ものすごい努力を重ねてミュージカル女優に転身し、さらにはクラシックにも挑戦した美奈子さんについて、冬美さんは『魂で歌っている』と感心しきりでした。
1997年に事故で父親を亡くした冬美さんは、心労からか喉の調子が悪くなり、2002年に歌手活動を休養。引退を考えた時期があったんですが、美奈子さんが歌う姿を見て『ただ、歌が好き』というあふれんばかりの思いを感じ、心を打たれたそうです」(前出・レコード会社関係者)