しかし、芸能活動が順風満帆な一方で、本田さんの体は静かに悲鳴を上げ始めていた。2004年11月頃から発熱やめまいの症状が出るように。それでも、彼女は「体調不良で迷惑をかけるわけにはいかない」と、点滴を打ちながらレコーディングやコンサートを続けた。そんな彼女を見て、医師は「せめて血液検査だけでも」と提案。ようやく病院で検査を受けたのは、2005年1月のことだった。診断結果は「急性骨髄性白血病」。すでに血液の90%ががんに侵されていた。
「普通なら立つこともままならない。そんな状況でも、美奈子さんはどうしてもコンサートに出たいと先生に相談しました。しかし、医師がそんな無茶を許可するはずもなく……」(芸能関係者)
入院中は一日も早い復帰を目指し、病室の浴槽に湯気を立てて発声練習をした。病室から歌声が漏れると、あまりの美声にほかの入院患者が集まってきたこともあった。
だが3度に及ぶ抗がん剤治療の副作用で髪がすべて抜けて全身に発疹ができ、口の中は口内炎だらけに。水が飲めなくなった本田さんは氷のかけらを口の中で溶かし、痛みをこらえながら同じ時期に入院した恩師に届けるため、歌声をボイスレコーダーに録音した。どれほどつらくて苦しくても「絶対にまた舞台で歌う」との希望を捨てなかった。
つらい治療に耐え、5月に望みをかけて臍帯血移植を受けると病状は快方へ。7月末には自宅に戻ることができた。
「料理が好きな美奈子さんは得意の水餃子を作り、家族にふるまったそうです。でも実はこのとき、彼女は家族に気づかれないようデビュー当時からのCDやカセットテープを並べ直し、たんすの中の下着や靴下も1枚ずつきれいに畳んで整理していたのだとか……」(前出・芸能関係者)
その後に容体が急変し、9月に再入院。病魔の進行は止まらず日に日に体力が衰えて寝ていることが多くなり、11月には危篤状態に。そのまま意識が戻ってくることはなく、彼女は11月6日午前4時38分に息を引き取った。いちばんの親友は最期に間に合わなかった。
「私が美奈子ちゃんの代わりになる」
約18年にわたって友情を育んだ坂本と本田さんだったが、本田さんは自身の病について坂本に詳しく語っていなかったという。
「美奈子さんとしては、冬美さんには弱々しい姿を見せたくない、心配させたくないとの思いがあったようです。美奈子さんの死後にその思いを知った冬美さんは号泣しながらも、立場が入れ替わったら自分も同じことをしていたと思うとつぶやいていました」(前出・芸能関係者)
本田さんの死後、坂本が真っ先に心配したのが美枝子さんだった。本田さんの両親は離婚しており、妹の律子さんも結婚して独立。本田さんはデビュー後5年ほどして、朝霞市の実家に戻っており、美枝子さんとふたり暮らしだった。