アナキストは国家を否定するのだから、その国家が強大化し他国を植民地化する帝国主義は認められないし、その手段としての戦争も絶対に拒否することになる。一切の権威を認めないという点で、アナキストと共産主義者には無神論者という共通点が生まれるのだが、反戦という共通目的があればアナキストはキリスト教徒とも共闘できる。アナキスト幸徳秋水とキリスト者内村鑑三の深い交わりはそこから生まれた。
そもそも明治を代表する文人ジャーナリストの一人、黒岩涙香(周六)によって創刊された新聞『萬朝報』が二人の出会いの場であった。「簡単、明瞭 、痛快」という黒岩の編集方針に賛同した内村、幸徳、それにのちに共産主義に転じた堺利彦とともに、彼らは花形記者として活躍した。ところが、日露戦争が避けられなくなると最初は反戦論を唱えていた黒岩主筆が世論の動向に抗しきれず開戦論に転じたため、内村は単独で、幸徳・堺は連名で「われわれは社会主義の見地から戦争を貴族、軍人等の私闘であり大多数の国民の犠牲によって成り立つものと紙上で伝えてきたが、社の方針の転換によって沈黙せざるを得なくなった。
しかし、このまま沈黙するのは志士の社会に対する責任に欠けることになるので、やむを得ず退社する」という「退社の辞」を叩きつけた。そして幸徳・堺は新たに『平民新聞』を創刊した。この新聞では、徹底的に日露戦争開戦反対の論陣を張った。挙国一致で日露戦争という国難を乗り越えようとしている桂から見れば、それは国家に対する裏切り行為と見えただろう。
幸徳は、世界思想の潮流のなかで自分の立ち位置がよく見えていた。その証拠に、『萬朝報』在社中の一九〇一年(明治34)に三十歳の若さで最初の著作『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行している。もっともその序文で幸徳は、これは著作というより著述、つまりオリジナルでは無く先人の思想を紹介するものだと述べているが、これは謙遜というものだろう。この著作は、世界レベルで見てもきわめて早い帝国主義の優秀な分析だという評価がある。実際、あまりにも有名なロシアのレーニンの『帝国主義論』(原題『資本主義の最高段階としての帝国主義』)が書かれたのは一九一七年(大正6)で、幸徳のほうが十六年も早い。
ところで、桂―タフト協定を覚えておられるだろうか? 日露戦争真っ最中の一九〇五年(明治38)七月、日本の桂太郎首相と米国大統領特使ウィリアム・タフト陸軍長官との間で合意した秘密協定だ。その内容は、日本はフィリピン独立運動に対する支援を一切やめる代わりに、アメリカは大韓帝国に対する日本の優先権を認めるというもので、アメリカのフィリピン併合、そして日本の韓国併合への道を開いたものである。いわば帝国主義の仲間同士が縄張りを決めたということで、日本の帝国主義路線参入を決定的にした秘密協定だが、こうしたアメリカのフィリピンに対する態度に対し真っ向から異を唱えたのも幸徳なのである。
(第1340回につづく)
※週刊ポスト2022年5月6・13日号