衣類や食料が詰まった50キロのスーツケース、そしてバックパック2つを背負い、キーウから列車で西部の都市リヴィウに向かった。そこからはバスで移動したが、国境では9時間待ち。疲れ切った体でポーランドに入国するも、目的地のホテルに空きがなく、右往左往した。
「ホテルを探す途中で警察に尋問を受けたりと、散々でした。最初はポーランドに避難する予定でしたが、避難民が多くて大変です。それに私はポーランド語ができない。日本語を勉強しているので、行き先を日本に切り替えました」
とはいえその時点で日本側の身元引受人が決まっていたわけではない。知人や関係者に連絡を取りまくり、断わられてはまた探し、やっとの思いで見つけた。
「日本の大学に避難民として留学できないかと考え、いくつかの大学や日本人の先生にもメールを送りましたが、どこも受け入れてくれませんでした」
それでも日本を目指した。所持金はわずか数百ドルで、航空券すら買えない。友人に紹介してもらった日本人の投資家に頼んでみると、なんと航空券を手配してくれたのだ。
まさしく行き当たりばったりの避難行。そして4月9日、2人は成田空港に降り立った。
母国からの「嫉妬の眼差し」
日本語の勉強を長年続けていたヴィクトリアさんだが、意外にも日本の地を踏むのは初めてだ。
「とても便利ですね。バスに乗ればボタン1つで停まってくれる。ウクライナだったら『次停まってください』と大声出さなきゃ停まりません。日本人は皆、ルールを守るし、住みやすい環境だと感じました」
在留資格の変更など必要な手続きを済ませ、山谷の都営住宅に移ったのは4月下旬。定住先が見つかったとはいえ、じっとしているわけにはいかない。大学で勉強をするか、仕事をするか。友人からの情報を頼りに、埼玉大学にアプローチしてみると、日本語コースの受講を認められた。問題は、弟のアルテム君だ。
「弟はウクライナで高校を卒業していますが、日本と制度が違うのでまだ17歳。だから日本の大学には進学できません。おまけに英語しかできないから、最初は困りました」
つまりは宙ぶらりんの状態なのだ。アルテム君が入学できる日本語学校を自力で探したが、学費が高くて断念。難民の支援団体に相談すると、無料の語学学校を紹介してくれた。
「弟は最初、友達がいなくて寂しい思いをしていましたが、今は外国人の友達ができました。ウクライナでは魚を食べられなかったのですが、日本に来てから大丈夫になったのです!」
ヴィクトリアさんは、同じウクライナの避難民で、小学校に通う子供の日本語通訳を手伝い、生活費を稼いでいる。たまにモデルの仕事もこなし、日本財団からの経済的支援を受けながら弟と二人三脚の日々だ。