額面どおりなら「何してんの?」という句
人間関係でうまく立ち回れず、酒でたびたび失敗していた放哉。さらに、肺病が悪化していく中で、「離婚」「無一物」そして「独居」という選択をしていったその後半生を知ると、最初に放哉の俳句を読んだ際に抱いた印象は、しだいに変化していく。
たとえば、こんな句がある。
「墓のうらに廻る」 放哉
「これなんかは額面どおりに受け取れば『何してんの?』っていう句で、最初めちゃくちゃ面白かったんですよね。だけど、時間をおいて何度か読んでいるうちに、やっぱり『墓』という言葉は強いなとか、なんで裏に回ったんやろうなんてことを考えさせられるんですよね。なんで墓の裏に回ったことを書いて残してんねん、という(笑)。
でも、放哉の終焉の地となった小豆島は、人間が生きているスペースと、亡くなった人たちのお墓との物理的な距離が近かったし、彼の余命もわずかで、精神的な距離も近かったわけですよね。僕とお墓の距離と、放哉とお墓の距離が全然違うというのがわかると、あたりまえのことだけど面白いだけの句ではなくて、奥行きが見えてくるんですよね」
あるいは、一見どこか微笑ましい光景を詠んでいるように思えた句でも、実はうら淋しい状況だったりするものもある。
「花火があがる空の方が町だよ」 放哉
「初めてこの句に触れた時、誰かに教えてあげているような雰囲気を微笑ましいと感じたんです。でも、何度か鑑賞しているうちに、放哉自身は町から離れた場所から遠い花火を見ているということが分かった。正確には花火を見物しているというよりは、花火を見物しているであろう人々が暮らす町の方角を眺めているんですよね。
ここには、社会と隔絶した場所に立ちながらも、完全に断ち切ることはできなかった放哉がいるように思います」