“身長170cmの大打者”のフルスイングで多くの人を魅了(写真/共同通信社)
アキレス腱を断裂していなければ……
当時はプロ11年目、32歳だった。最初のうちは阪神への移籍の可能性を否定的に振り返っていた門田だが、少しすると、「正直なところ、阪神でやったらどうなるか、少しは興味がありました」という本音も漏れてきた。
「阪神でプレーすると、マスコミが大きく取り扱ってくれる。そういう環境でやったらどうなっていたか、想像がつかない。まだ若かったから、スポーツ紙の一面を飾る記事になれば勘違いしていたかもしれない。ボクの性格では浮かれたらアカンと考えると思いますが、あれだけ大きく扱われると、気分は悪くないでしょうからね。浮かれてしまって、自分で絶不調の入り口を作る可能性もある。持ち上げ方が半端じゃないですからね。南海でやったのと同じような気持ちで野球ができただろうか。いまでも興味があるね。
それにセ・リーグとパ・リーグの野球は違う。パ・リーグの方が放任主義。セ・リーグは送りバントをして点差を詰めるが、パ・リーグのベンチはある程度の点差になったらホームランに懸けるという野球でしたからね。当時のパ・リーグには米田(哲也)さん(通算350勝)、鈴木啓示(同317勝)、山田久志(同284勝)らをはじめ、梶本隆夫さん、(村田)兆治、東尾(修)と200勝以上がゴロゴロいましたからね。そうした投手がいるなかで、自分も鍛えられた。それがセ・リーグでどこまで通用するか。これも興味がありましたね」
成績を残す自信があったかと聞くと、「少しはあったね」という答えが返ってきた。
「ボクはアキレス腱を断裂した翌年(1980年)に41本を打ちました。打率は.292、打点84だった。“ホームランを打てば全力で走らなくていい”という考えもしていたが、ホームランを40本打てば打率は3割になるし、打点も100に近づく。そんな考え方で野球をやっていた。考えがシンプルだったからね。
他の選手は打つ、走る、守るでお金をもらっていたところ、ケガで足が使えないボクは打つだけでおカネをもらっていた。打つことであとの2つをカバーしないといけなかった。阪神に行ってもそういう気持ちでずっと野球が続けられたかどうか。逆に言えば、アキレス腱断裂がなければ、DHのない阪神へのトレードにも応じていたかもしれない。
南海で40本を打った時に、給料が上がるかなと思ったが、上がったのは雀の涙。人気がないパ・リーグではこれだけホームランを打っても活字にもならんのか……と何回も悔しい思いをしましたからね。セ・リーグではどうなんだろうと思いながら野球をやっていたから、自分を試してみたかったという気持ちはありますね」
そして最後にこうも話していた。
「セ・リーグからのスタートだったら、ボクも変人といわれるまで練習はしなかったかもしれません」
阪神の門田博光が誕生していたら、「不惑の大砲」とは呼ばれていなかったのかもしれない。
