この「伊藤の一喝」は、たしかに日本の政治家としての良心を示したものではあったが、当時の「世界の常識」がその「良心」に沿うものであったかと言えば、話はまったく逆であったことも留意しておく必要がある。その状況が一番わかりやすい事例が、これより十年ほど後の話になるが「サイクス=ピコ」協定だろう。

〈サイクス=ピコ協定【サイクスピコきょうてい】
1916年、英・仏・露3国間で結ばれた秘密協定。イギリス代表のサイクスM.Sykesとフランス代表のピコG.Picotが原案作成。オスマン帝国の領土を3国で分割し、それぞれの勢力範囲とパレスティナの国際管理化を定めた。1917年革命後のソビエト・ボリシェビキ政府がこれを暴露し、アラブ独立を約したフサイン=マクマホン書簡などとの矛盾が明らかとなった。しかし、その後の中東諸国の国家形成や民族統合などは基本的に西欧列強が定めたこの分割線に沿って進めざるをえなかったため、中東・アラブ世界はさらに大きな矛盾を抱え込むことになった。2014年6月に〈カリフ制国家〉創設を宣言したISは、サイクス=ピコ協定による帝国主義的分割線を認めず、現状の中東地域の国家領土を一切否定すると表明している。〉
(『百科事典マイペディア』平凡社)

 M.Sykesはマーク・サイクス、G.Picotはジョルジュ・ピコ。ISは言うまでも無くIslamic State(イスラミック・ステート)のことで、日本では「イスラム国」と呼んでいるイスラム過激派組織のことだ。ちなみに「フサイン=マクマホン書簡」とは、一九一五年にイギリス高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、オスマン帝国に支配されていたアラブ人のリーダーであるメッカのアミール(太守)フサインと結んだ協定だ。オスマン帝国への反乱を条件に、英国は戦後のアラブ独立の支持を約束した。

 しかし、この書簡はサイクス=ピコ協定だけで無く、ユダヤ人にイスラエル再興の権利を認めたバルフォア宣言とも矛盾している。バルフォア宣言は、一九一七年にイギリス外相で首相経験者でもあるアーサー・ジェームズ・バルフォアが、第一次世界大戦でユダヤ人の支援を受けるためシオニズムの基本的主張である「パレスチナにユダヤ人の国家を建設する」に同意した宣言だが、当然ながらこれはフサイン=マクマホン書簡ともサイクス=ピコ協定とも矛盾するものだった。

 つまりイギリスは、三年連続でフサイン=マクマホン書簡(1915)、サイクス=ピコ協定(1916)、バルフォア宣言(1917)を実行し、「二枚舌」ならぬ「三枚舌」外交を繰り広げたのだ。これが当時「世界一の国家」だった大英帝国の「もう一つの顔」である。その悪影響は「中東問題」としていまだに世界を混乱に陥れている。まったく罪深い話だ。

 つまり、清国に対するアヘン戦争もそうだが、この時代は帝国主義の国家はまさに「やりたい放題」であった。だから弁護するわけでは無いが、児玉源太郎も「それぐらいやっていい」、いや「やるべきだ」と考えていただろう。イギリスと違うのは、満洲の荒野に散った「十万の英霊」の死を無駄にすることは許されないと考えていた部分だが、注目すべきは伊藤がその「信仰」に縛られていなかったことだ。

 では、伊藤のライバルで元老として強大な権力を維持し、その場にもいた山県有朋はその伊藤発言にどう反応したか? 当然児玉は「陸軍の法王」の「援軍」を期待したはずだ。

 ところが、期待に反して山県はなんの「応援演説」もしてくれなかった。むしろ、これではマズいと思ったのだろう、伊藤と同意見で児玉には反対だったはずの西園寺が、会議をまとめるために次のように児玉を「フォロー」した。

〈兒玉參謀總長が滿洲經營と云ふ語を用ゐられたのは、畢竟曩に總長を滿洲に關する諸問題の委員長に推薦した時に、自分躬から經營と云ふ語を使用したのに基因したので、深い根柢のある語ではないと思惟する。〉
(引用前掲書)

 つまり西園寺は児玉がそう言ったのは自分にも責任があり、深い考えあってのことでは無いと「弁護」したわけだ。もちろん児玉の真意はむしろ「イギリス式の植民地『経営』を満洲でもやるべき」なのだが、山県がなにも言わないので児玉はそれ以上なにも言えなかった。そこですかさず西園寺は合意事項のまとめに入った。四項目からなり、眼目は満洲における「軍政」を一刻も早く廃止し、日本と満洲との関係を軍事支配から領事駐在による外交的関係に切り替えることであった。

 結局、この合意は成立した。

 それにしても、山県有朋はなぜ児玉路線に賛意を示さなかったのか?

(文中敬称略。第1370回へ続く)

※週刊ポスト2023年2月3日号

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