「兄から話は聞いています」
一方、背中で道を示してきたのが、7つ下の弟よりも一足早く野球の世界に入った兄の龍太さんだ。前出のスポーツ紙記者が語る。
「龍太さんは小学4年生で野球を始め、高校は岩手県立の前沢高に進学。卒業後は地元の会社で働きながらクラブチームで野球を続け、2010、2011年シーズンは四国アイランドリーグの『高知ファイティングドッグス』でプレーし、その後は再び地元に戻ってトヨタ自動車東日本に入部しました。現在はコーチとしてチームを支えています」
佐々木氏が大谷兄弟との思い出を振り返る。
「7つ離れた兄弟だったので、お姉さんほど翔平と一緒に遊ぶことはありませんでした。キャッチボールをしても歳の差があるので、ボール遊びの相手という感じですね。それでもお兄さんと翔平の仲は良く、僕が翔平と一緒にいると『いつも弟と遊んでくれてありがとう』と気さくに話しかけてくれました」
優しい兄にとって、成長を続ける大谷は自慢の弟だったようだ。
高知ファイティングドッグスを舞台にした『牛を飼う球団』の著者でスポーツジャーナリストの喜瀬雅則氏が語る。
「龍太さんが独立リーグでプレーしていた頃に大谷選手が高校に進学しましたが、チームメイトに『俺の弟、花巻東に入ったんだ』と嬉しそうに語り、しょっちゅう弟の話をしていたそうです。
また、大谷選手がプロ入りした後、たまたま龍太さんの元チームメイトが日ハムで広報として大谷を担当することになりましたが、この職員との初対面時に大谷選手は、『兄と野球を一緒にしていたんですね。話は聞いています』と嬉しそうに語りかけたといいます」
龍太さんが所属していた当時の高知ファイティングドッグスで監督を務めた定岡智秋氏もこう語る。
「龍太は187cmの大型外野手で、打球も遠くに飛ばせましたし、足も速かった。でも、7つ年下の弟のことを『モノが違う』と認めていましたね」
しかし、大谷にとって、7つ上の兄は野球選手として追いかける存在だったようだ。
母の加代子さんは雑誌のインタビューで大谷の少年時代を振り返ってこう語っている。
〈負けたくないという気持ちが強かったはずです。末っ子が伸びるのは、上の子に負けたくないという強い気持ちが技術を進歩させるのかもしれません〉(『文藝春秋』、2014年11月号)