それでも大和が通った国立の宮崎大学教育学部附属中学は、学業が優秀な生徒が集まる県下一の学校だ。
「小さな頃から、嫁が熱心に勉強をやらせていた。大和が小学生の頃は泣きながら勉強していました。僕は勉強なんかしたことがなかったから、『そんなに勉強させなくても良いじゃん』と思いながらも、大和の将来のためだと思って、勉強が始まったら僕は外出するようにしていました(笑)。嫁いわく、『勉強だけしていれば、東大・京大にも行けるレベル』だそうです。野球ばっかりしているから、今はそのレベルにはないと思いますが……」
進路は「県外」一本だった
決して強豪とは言えない国立中学の軟式野球部に大和は所属して投手としての腕を磨いていく。だが、中学1年生から2年生にかけた時期、成長痛に悩まされ、宮崎大学の病院でMRI検査を受けると、医師から「骨端線が残っている状態でこのまま投げ続けたら2度と投手ができなくなる」との診断を受けた。
「その瞬間、病院で泣き崩れたそうです。それでもめげずに1年間、左手で投げて、野手として試合に出ていました。あそこで無理をさせていたら今はなかったかもしれない」
進路に関して大和本人は、県内の学校は選択肢になく、最終的に東京の早稲田実業か、創成館かで悩んだという。
「県外の学校に行きたかったみたい。その理由を訊くと、『格好いいから』と(笑)。友達がたくさんいる宮崎ではなく、県外の強豪校で寮暮らしをして、厳しい競争の中で成長していきたかったんじゃないですかね」
元プロ野球選手を父に持てば、常に比較される野球人生が待つ。それを大和は喜びに感じつつ、野球人生を自らの力で切り拓いていこうとした。そして昨年の夏、大和は長崎大会決勝のマウンドに3回から上がった。勝てば甲子園という大一番で、勝敗を決定づける2ランを浴びて涙を飲んだ。
「すごく苦しんで、落ち込んで、長い時間、自信をなくしていたんです。それに加えてフォームを崩し、イップスのようにストライクが入らないような状況になってしまった。その頃はちょくちょく宮崎に帰ってきていたので、親子でキャッチボールを繰り返して、フォームの形を作って、自信を取り戻させました」