ところが、そこに第一次世界大戦が起こった。主戦場はヨーロッパであり、アジアの守りは手薄である。そこで日本人の誰もが考えたのがドイツから膠州湾を奪い、それを取引材料にして満蒙の特殊権益を延長すればよい、ということだ。この時点まで生き残っていた元老井上馨が、第一次世界大戦の勃発を「天佑(神助)!」と叫んだ理由もこうした流れを頭に入れていれば納得がいくところだろう。
問題は、このやり方に徹するならば大きな問題にはならなかったということである。しかも参戦の直前に大隈重信首相は、これは「東洋の平和と中国の領土保全をめざすものだ」と内外に宣言しているのだ。それゆえ、日本の中国に対する領土的野心を警戒していたアメリカも日本の参戦に異を唱えなかった。ところが、いざドイツに勝利すると日本は前記の方針を反故にしたばかりか、領土的野心を剥き出しにした強硬な要求を中国に突きつけたのである。
オマエのものもオレのもの
「対華二十一箇条の要求」という。全五号(項目)で、細かく分けると全部で二十一箇条になるのでそう呼ばれた。
第一号は山東省におけるドイツ権益を日本が継承すること。第二号は南満洲における日本権益の強化を意図したもので、遼東半島および南満洲鉄道の租借期限の大幅延長の要求、である。第三号は中国工業(製鉄)の要である漢冶萍公司経営に日本が本格的に参加すること。第四号はロシアなどに有利にならないよう沿岸部の不割譲を中国政府が保証することであった。
そして第五号(細目にすると七箇条)については、当初日本は「要求では無い。希望条項だ」とし公開しなかった。その内容は併合前の韓国に行なったもののように、中国政府が日本人を政治・財政・軍事顧問として雇うことや警察運営に日本人を参加させること、また中国全土において日本の鉄道敷設権を認めることが含まれていた。
まず問題は第一号と第二号で、これでは膠州湾を返還する代わりに満蒙特殊権益を延長させるという、ある意味で「公平な取引」になっていない。まさに「オレのものはオレのもの、オマエのものもオレのもの」であり、完全な「やらずぶったくり」である。第三号、第四号については中国の国益の侵害であることは間違いないが、「植民地経営の先輩」である欧米列強がさんざん行なってきたことであり、とくに目くじらを立てることでは無いという「国際常識」はあった。ひどい話ではあるが、帝国主義つまり軍事的強国が弱国を次々に植民地化していた時代なのである。