桑田真澄、清原和博のKKコンビなどの選手を入学に導いた大阪・PL学園の井元俊秀氏
甲子園の切符をかけ、地方大会の激戦が繰り広げられている。選手たちの熱闘の舞台裏では、全国の強豪校においてチームの土台を支える「スカウト担当教員」の役割が大きくなっているという。令和の高校球界の新潮流をノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。(文中敬称略)【全3回の第2回。第1回から読む】
「熱意を伝えることだけ」
日本の高校野球におけるスカウトの先駆者は大阪・PL学園の伝説的な存在である井元俊秀だろう。桑田真澄、清原和博のKKコンビなど、数々の有望選手を入学に導いた人物だ。井元は学校の教員ではなく、学園の母体であるPL教団で広報活動に従事していた。その全国行脚と並行して中学野球の情報を集め、選手勧誘に動いていた。井元はこう振り返る。
「1980年代までの高校野球界には、怪しいブローカーのような人間も数多く存在した。保護者からお金をもらって高校に橋渡しをする輩もいました」
ブローカーとの接触は当時も今も日本高等学校野球連盟は禁止している。
「1990年代前半まで、選手勧誘を担当するのは外部の人間ばかりでした。OBやスポーツ用品店の人間などです。教員が表立って選手勧誘を行なうようになったのは彼が先駆けではないでしょうか」
井元の言う「彼」とは、大阪桐蔭の現監督である西谷浩一だ。西谷は同校の社会科教員でもある。
「西谷君がコーチになった(1993年)ばかりの頃だと思います。私の前で土下座して、『先生、どうやったら選手を獲得できるんですか? 教えてください』と懇願され、私は『熱意を伝えることだけだよ』と言いました」
西谷は熱心に中学野球の現場に足を運び、常勝軍団への礎を築いた。その姿勢は時に、周囲から「西谷は練習を見ずに選手勧誘ばかりしている」と揶揄もされたが、現在は同じく社会科教員でもある投手コーチの石田寿也が選手勧誘を担い、教師陣による盤石のスカウト体制を整えた。結果、西谷は通算9回の日本一、監督として甲子園での最多勝利記録「70」を達成。同校に倣うように、強豪私学が「教員スカウト」を置くようになったのが令和の高校野球なのだ。
とはいえ、少子化の時代に公立高校との格差をより生む選手勧誘は決して推奨されているわけではない。日本高等学校野球連盟は「高校野球関係者と中学関係者の接触ルール」の中で、高校関係者と中学生の直接の接触を禁じ、《進路指導の一環として当該中学校校長の承認の上、中学校の進路担当者(担任など)および保護者と面談するものに限る》と定めている。
強豪校関係者はその規定を逸脱しない範囲で、中学生が卒業する1年前、いや2年前から視察に足を運んでいるのが実情だ。
視察先は中学硬式野球の公式戦やU-15侍ジャパンのトライアウトなど。そこで硬式野球のクラブチーム関係者や指導者を通じて保護者とコンタクトを取り、まずは入学の「内定」につなげる。その時期は年々早まり、U-15侍ジャパンに選ばれるような「特A」の中学生は、2年生の秋から冬にかけて「内定」する。
(第3回につづく)
【プロフィール】
柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/1976年、宮崎県生まれ。ノンフィクションライター。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。2016年に『永遠のPL学園』で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。他の著書に『甲子園と令和の怪物』がある。
※週刊ポスト2025年8月1日号