作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 その10」をお届けする(第1475回)。
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パリ講和会議のあった一九一九年(大正8)、それは日本が人類初の人種差別撤廃を国際社会に訴えた記念すべき年でもあったが、講和会議で敗戦国ドイツが持っていた中国山東省の利権を日本が継承することになったので、それに反対するデモが中国で起こった。同年五月四日に行なわれたので、「五・四運動」と呼ばれる。
これに呼応して、日本国内でも中国人留学生二千人が東京でデモ行進を行なった。そしてその二か月後の七月に、中国で日中両軍が衝突し主に日本人が多数殺傷させられるという事件が起こった。現場が寛城子というところだったため、寛城子事件という。この事件については、これまでたびたび引用してきた日本を代表する百科事典等にも掲載されていないが、日本史専門の『国史大辞典』(吉川弘文館刊)にはさすがに載っていた。
〈寛城子事件 かんじょうしじけん
大正八年(一九一九)七月十九日、中国東北(満洲)長春の西北郊の寛城子におこった日中両国軍の衝突事件。同年六月、張作霖東三省巡閲使兼奉天督軍は財政の紊乱を理由に孟恩遠吉林督軍を弾劾、その後任に腹心をあてんとして七月中旬奉吉両軍は対峙状態にはいった。折から同月十九日正午ごろ、吉林軍約千名が駐屯している寛城子付近を通行中の満鉄従業員船津某が、同軍兵士に殴打された。報により同地日本守備隊の住田米次郎中尉が、事実調査のため兵を率いて吉林陣営に赴いた。その際突然吉林軍が発砲し、ついに日中両軍の交戦となった。日本軍は衆寡敵せず窮境に陥り、長春から救援を求め辛くも活路を開いたが、戦死者十八名、負傷者十七名をだした。(以下略。項目執筆者・林正和)〉
背景説明が無いと事件の内容がまったく理解不能だと思うので、それをする。
事の発端は、中国の「軍閥」の主導権争いにあった。話は、孫文の跡を継いで中華民国第二代臨時大総統となった袁世凱が皇帝制復活をめざしたものの、内外から総スカンを食い失意のうちに病死した一九一六年(大正5)までさかのぼる。
独裁者にありがちなことだが、袁世凱は後継者を明確に定めていなかった。独裁権力であればあるほど、明確な後継者が決まるとそのナンバー2は権力の座を狙って自分を殺しに来る可能性がある。だから独裁者の政権が突然崩壊すると、有力な部下たちの覇権争いが起こりやすい。このときもそうなった。結局、そうした部下たちが出身地ごとに軍事集団、つまり軍閥を形成し中華民国全体を仕切ろうと闘争を始めたのである。
袁世凱が率いた北洋軍閥は、清朝末期の重臣李鴻章が原型を作ったものだったが、それを中国最大の軍閥に育て上げたのが袁世凱だった。この軍事力に注目した孫文は、反革命勢力を抑えるために中華民国臨時大総統の座を袁に禅譲した。だが、袁自身が皇帝をめざす「反革命的存在」になってしまったのは、すでに述べたとおりだ。
そういう事情だから、袁世凱の部下には優秀な軍人がいた。馮国璋と段祺瑞だ。だが、民国政府は政治的安定を求めて第二代中華民国大総統の座に中立派の軍人黎元洪を祀り上げた。ちなみに「臨時大総統」なら初代が孫文で二代目が袁世凱になるのだが、袁世凱は一時「臨時」の取れた「中華民国大総統」の座に就いていたので、「大総統」としては袁世凱が初代で黎元洪は二代目ということになる。このあたりの歴史はじつにややこしいのだが、ここが理解できていないと先に進めないので、できるだけ「交通整理」して説明する。
とりあえずは、段祺瑞が国務総理という形で大総統黎元洪を補佐することになったのだが、あくまでもトップをめざす段は黎大総統と政治闘争を起こし、最初は敗れて下野した。しかし黎大総統にはその地位を保持するための軍事力が不足していた。このままでは段の軍事的巻き返しに遭うことは火を見るよりあきらかだ。そこで黎大総統は同じ軍人でも段祺瑞や馮国璋らとは相容れない軍団の長に応援を依頼した。張勲という。清朝生え抜きの軍人で、安徽督軍を務めていた。
