督軍とは中華民国の制度で、省単位の軍事司令官のことをいう。本来は中央政府が選出して任命し、現地の省に赴任させるものだったが、実際にはその地方で有力な私的武装集団の長を追認する形で督軍として認めることのほうが多かった。室町時代、足利将軍家が衰えることによって地方の豪族が勝手に大名となったりすることが多かったなか、幕府が正式に任命した大名もいたこととよく似ている。乱世ということだ。
この時代にもっとも有力だった軍閥は三つあった。そのうちの二つは北洋軍閥系で、それぞれ「直隷派」「安徽派」と呼ばれた。直隷とは首都北京を含む河北省のことで、長である馮自身や直属の部下がここの出身だったからである。これに対して段祺瑞は安徽省出身だったので、その軍閥を安徽派と呼んだ。
もう一つの軍閥「奉天派」の長が前出の引用文にもある張作霖だが、中華民国の正式な軍人であった段祺瑞や馮国璋とは違い、張は馬賊出身の叩き上げであった。にもかかわらず奉天を根拠とした大きな私的武装集団の長であったので、民国政府は彼を「奉天省(遼寧省)」の「督軍」として認めた、というわけだ。あえて日本の戦国時代になぞらえれば、「直隷派」「安徽派」は「守護大名」だが、「奉天派」は「戦国大名」ということになる。
では張勲はどうかと言えば、細川藤孝(幽斎)、いやその兄である三淵藤英だろうか。 織田信長が室町幕府を滅ぼす直前まで兄弟は最後の将軍足利義昭の近臣だったが、義昭を見限り信長に仕えた弟藤孝と異なり、兄藤英は最後まで忠誠を貫き通した。
黎大総統が段祺瑞の攻勢を怖れて北京に呼び寄せた安徽督軍の張勲も、まさにそうした人物だった。清の時代には西太后の護衛役を務めたこともあり、辛亥革命の際には革命軍と戦って敗れたが、地方で勢力を挽回し安徽督軍の地位を得た。特筆すべきは、自分の主人はあくまで清朝だとして弁髪を切らず、西洋風の髪型にしなかったことである。
要するに徹底的な保守主義者で、大韓帝国を日本に委ねた李完用のような「逆臣」では無く、まさに朱子学的な忠臣であったことだ。彼は北京を軍事的に制圧可能だと気がつくと、忠臣が取るべき行動を取った。なんと、清が滅亡した後に廃帝にされていた清朝最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅溥儀)を再び皇帝の座に据えたのだ。つまり、清朝の再興を図ったのだ。これを張勲復辟と呼ぶ。一九一七年(大正6)七月一日のことである。