広済堂ホールディングスのトップに立った中国人実業家の羅怡文氏(時事通信フォト)
そもそも東京博善が「民営の火葬場」という特殊な形を残しているのは、「公共」を定めた1948年施行の墓地埋葬法の規制を受ける前の設立だったからだ。その歴史は明治時代にまで遡る。設立者は、「明治の政商」だった木村荘平だ。
当時、差別問題に起因してタブー視されていた「食肉」と「火葬」は、警視庁の管轄だった。薩摩藩の出入り商人だった木村は、薩摩藩出身で初代警視総監となった川路利良の招きで上京し、行政とのコネを使って二大タブーに挑戦した。
まず「食肉利権」で財を築き、1887(明治20)年に「東京博善」を設立。1893年には立て続けに火葬場を買収し、今でいうM&Aで東京のトップ企業となり「巨大利権」を手にしたのだ。
事業意欲が旺盛な木村は、私生活も豪快だった。妾が20人、子供は30人もいたという。六男の荘八は、亡くなった父・荘平のことを「大べらぼう」で、「桁外れの奇漢だった」と述べている。
そんな木村の没後、東京博善は迷走する。経営権は次々に移るがうまくいかず、浄土真宗や日蓮宗など複数の僧侶が取締役や監査役に就任し、利益を考えない「宗教経営」の会社となった。
そうした経営が昭和末期に通用しなくなると、東京博善は田中角栄元首相の「刎頚の友」といわれ、荒々しく狡猾なビジネスを展開する国際興業の小佐野賢治の手に渡る。ロッキード事件で連座して逮捕された人物だ。
