立川談志一覧/7ページ

【立川談志】に関するニュースを集めたページです。

「ああ、あの人も」芸能・スポーツほか2011年の物故者を偲ぶ
「ああ、あの人も」芸能・スポーツほか2011年の物故者を偲ぶ
大人力コラムニスト・石原壮一郎氏の「ニュースから学ぶ大人力」。今回は今年一年を総括して、2011年の物故者を「大人として謹んで偲ぶ」方法を考えます。* * * 2011年も間もなく幕を下ろしますが、今年もたくさんの方々が、こっちの世界から別の世界に旅立って行かれました。年末になって飛び込んで来たのが、朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者・金正日(敬称略・以下同)の訃報。ほかにも、11月には落語家の立川談志、10月にはアップルCEOのスティーブ・ジョブス、7月には作家の小松左京など、今年は超大物の死が相次いだ印象があります。それぞれの先人たちの業績に敬意を表し、その死を謹んで悼むのは、大人としての大切な務め。超大物の訃報にばかり目を奪われて、自分の人生に重要な意味を持つ人の死をうっかり失念するわけにはいきません。「ああ、あの人も今年だったよね」と言い合いながら、みんなでそっとご冥福をお祈りすることができるように、あらためて「2011年の物故者」を振り返ってみましょう。芸能関係では、個人的にも極めてショックでしたが、4月には元キャンディーズの田中好子が55歳の若さで亡くなりました。3月には坂上二郎、5月には児玉清や長門裕之、6月にはピーター・フォーク、7月には宮尾すすむ、8月には前田武彦や竹脇無我、9月には杉浦直樹……。それぞれの出演作品の思い出を語り合ったり、あるいはモノマネをしてみたりして、たくさんの夢や喜びを与えてくれたことに感謝したいものです。今年は、野球関係者の訃報も目立ちました。2月には中日ドラゴンズ元監督の与那嶺要、3月には箕島高校野球部元監督の尾藤公、7月には阪神タイガースなどで活躍した伊良部秀輝、8月には巨人軍の名誉オーナーの正力亨、11月には「悲運の名将」と言われた西本幸雄……。サッカー界では、8月に元サッカー日本代表のディフェンダー・松田直樹が、練習中に突然の悲劇に見舞われました。34歳の若さでした。7月には、元サッカー日本代表監督の森孝慈も世を去っています。小松左京の話題が出たときに、作家つながりでいっしょに偲びたいのは、5月の団鬼六、7月の辺見じゅん、10月の北杜夫……。文化人方面では、今月に入ってから、脚本家の市川森一や映画監督の森田芳光が、相次いで亡くなりました。もちろん、ここに挙げた以外でも、みなさんそれぞれに「今年は何といっても、あの人が亡くなったのが残念だった……」と思える人がいるはず。暮れのあわただしい時期ではありますが、もう一度ゆっくり思い出しましょう。会話の中で、周囲が「へぇ、その人も今年だったんだね」と感心してくれる名前を上げることができたら、故人を偲ぶことになるだけでなく、その故人に関係するジャンルへの造詣が深そうに見えそうです。いや、まあ、そのあたりはあくまでも、どうでもいい極めてささいなついでの副産物ですが。
2011.12.31 16:00
NEWSポストセブン
談志さん妻 「最愛のパパと別れる時間を」と死の発表遅らせた
談志さん妻 「最愛のパパと別れる時間を」と死の発表遅らせた
11月21日に喉頭がんのため亡くなった立川談志さん(享年75)。食道がんと診断されても、「酒とたばこ? やめるわきゃねーだろ」と豪快に笑った。破天荒、型破り――そんな言葉がぴったりの天才落語家。その傍らにはいつも妻・則子さん(72)の存在があった。夫婦と親交の深かった作家の吉川潮さんがいう。「おかみさんは天真爛漫でいくつになっても変わらない。家元はそんなおかみさんを、70才を過ぎても若いころと同じように『ノンくん』と呼んでいました」婚約者がいた則子さんを、談志さんが強引に口説き落として1960年に結婚。則子さんは“天然”で、「落語のことをまるで知らず、弟子にも干渉しようとしませんでした。一日中落語のことばかり考えている家元には逆に息抜きができて心地よかったのでしょう」(吉川さん)談志さんの破天荒さは世間の反感を買うことも多かったが、則子さんがいる安心感が心の支えになっていた。著書『人生、成り行き-談志一代記-』ではこう明かしている。<若い頃、おれは自分が所帯を持てるような人間じゃないと思っていました。(中略)それが、この人とならば、何とかドロップアウトしないで済むだろうナ、と思って一緒になったわけですけどね>1988年に則子さんの子宮がんが見つかると、談志さんは毎日通えるよう病院の近くにマンションを購入。必死の看病が実って快方に向かうも、1997年、今度は談志さんに食道がんが発覚する。一度は手術で除去したが、2008年に発覚した喉頭がんが2010年11月に再発。2011年11月21日に永眠した。死が公表されたのはその2日後だった。「最愛のパパとお別れするための時間がほしい」。そこには則子さんの強い意志があったという。※女性セブン2012年1月1日号
2011.12.19 07:00
女性セブン
談志の「たばこ会見」は逸見政孝氏の件で叩かれた病院への配慮
談志の「たばこ会見」は逸見政孝氏の件で叩かれた病院への配慮
 11月21日に喉頭がんのため亡くなった立川談志さん(享年75)について、多くの噺家、芸人たちが、憧れの人だったと口をそろえる。天才、奇才などと呼ばれ、その才能にはたぐいまれなものがあった。破天荒で毒舌を吐きまくった印象が強いが、その素顔は人情味にあふれる、優しき男だった。 1997年には食道がんが見つかり、手術で摘出した談志さん。このとき開いた記者会見ではたばこをふかしながら、「(この病院は)いいPRになったよな。(宣伝効果を金額に換算すると)億じゃきかねぇだろ」と笑ってのける破天荒ぶりに、集まった報道陣も驚いた。 しかし、ここには談志流のやさしさが込められていた。「実は手術をした病院は故・逸見政孝さんががん治療を受けた病院でした。逸見さんが亡くなった後、病院はかなり強いバッシングにあっていました。あの毒舌はそれを踏まえた談志流のエールだったんです」(談志さんの知人) しかし、病魔はその手を少しも緩めてはくれなかった。2008年5月には喉にポリープの疑いがあるということで検査入院したところ、咽頭がんであることが発覚。放射線治療などで一時は復帰への道が開けたが、2010年11月には、咽頭がんが再発した。 このとき談志さんには、声帯摘出という選択が突き付けられた。「手術をすると声を失う」という事実に、談志さんはなんの迷いもなく、「プライドが許さねぇ」と、手術を拒否した。 日ごとに大きくなるがん細胞によって気道は狭められ、症状は悪化の一途を辿り、今年3月には気管切開手術を受けざるを得なくなった。とうとう声も出せなくなり、食事はおろか飲みものすら喉を通すことができず、チューブで胃に直接栄養を送り込む処置が行われた。体力はあっという間に奪われ、体重は50kgを切るほどやせ細った。 結局、談志さんの高座は、気管切開をする直前の3月6日、立川流一門会で『長屋の花見』と『蜘蛛駕籠』を披露したのが最後となった。※女性セブン2011年12月15日号
2011.12.05 07:00
女性セブン
談志の戒名「雲黒斎」 アンチとウンチかけたとみうらじゅん
談志の戒名「雲黒斎」 アンチとウンチかけたとみうらじゅん
みうらじゅん氏は、1958年京都生まれ。イラストレーター、エッセイスト、ミュージシャン、ラジオDJなど幅広いジャンルで活躍。1997年「マイブー ム」で流行語大賞受賞。仏教への造詣が深く、『見仏記』『マイ仏教』などの著書もある同氏が、戒名について考察する。 * * * 戒名の問題を考えようという時に、落語家の立川談志師匠の訃報に接した。師匠は生前に自ら戒名を決めていたらしい。『立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)』――。 故人を彷彿とさせる「家元」「勝手」という単語の狭間に“うんこくさい”というフレーズが入っている。 ビートたけしさんが、『21世紀毒談』の連載(週刊ポスト12月2日号)で、〈オイラの場合、『女好院太摩羅珍宝大居士(じょこういんふとまらちんぽうだいこじ)』〉なんて自分の戒名を考えていたから、「ああ、立川流(たけし氏も立川流の弟子)の人はうんことかちんこが好きなんだな」とか、こんな戒名、田舎のふつうのおじいさんがつけたら、遺族や親戚の人たちが困るだろうなとも思った。 ところが、談志師匠は一方で、「お経はいらない、骨は海に撒いてくれ(つまりお墓はいらない)」って“遺言”していたともいう。あれ? お経はいらないってことは、端的にいえば、仏教的な葬送は必要ないってことですよね。それなのに自ら戒名を考えたってことはどういうことか? もしや戒名の本当の意味を知らなかったのか? いや、談志師匠ほどの博学な人にそれはありえない。だとすれば、師匠は一見、人を食ったような戒名をつけることによって、「自分に戒名なんてもんは必要ない」と訴えたかったのではないだろうか。 つまり、「雲黒斎」は、仏教へのアンチテーゼを表明したもの。アンチとウンチをかけた絶妙の戒名だと思うんだ。その戒名が、新聞やテレビで慎ましげに報じられているのを見て師匠はきっと天上からほくそ笑んでいるに違いない――。※週刊ポスト2011年12月16日号
2011.12.05 07:00
週刊ポスト
立川談志 亀田興毅や石原慎太郎にも辛辣な言葉を発していた
立川談志 亀田興毅や石原慎太郎にも辛辣な言葉を発していた
11月21日に喉頭がんのため亡くなった立川談志さん(享年75)。破天荒で毒舌を吐きまくった印象が強いが、その素顔は人情味にあふれる、優しき男。75年のその人生は、笑いあり涙あり、人を引きつけてやまないあの高座そのものだった。談志さんは1983年に落語協会真打昇進試験を巡って、落語協会の会長を務める師匠の柳家小さんと対立した。「昇進試験が厳しすぎるといわれたら、全員合格にする。全員合格に批判が出たら、また突然厳しくする。当時の昇進試験はあまりに場当たり的でした。談志さんはもともと若手は早く真打にして活動させたほうがいいという立場。そんなある日、談志さんが仕事で昇進試験の審査員を欠席していたときに自分の弟子2人が落とされて、“我慢できねぇ”ってなったんです」(落語関係者)弟子には厳しくも、優しかったという談志さんは、一門16人を引き連れて落語協会を脱退。古典落語に噺家の個性を盛り込み、世相や流行も反映する独自の立川流落語を創設した。当時世の中は、空前のお笑いブーム。島田紳助(55)や明石家さんま(56)らを頂点に、ダウンタウンら若手も次々に育っていた。「談志さんには、古典落語のままでは漫才には勝てないという思いがありました。これまで大事にしてきた古典落語を残すために、新しいものを取り入れようと勉強に励んだんです」(前出・落語関係者)前落語協会会長の5代目・鈴々舎馬風は、談志さんをこう評したことがあった。「天才が勉強するんだからかなわない」談志さんの時代を見る目は鋭くなり、辛らつな言葉で幾度も時流を切り取って見せた。時には電車内でメイクをする女性たちを批判し、2006年8月に判定勝ちした亀田興毅(25)に八百長といい放つ…。2007年、盟友の石原慎太郎都知事(79)についてコメントを求められたときには、こういい放った。「彼は都知事以外にポジションがないんだろ。プライドを満たすところ、居場所なんだな。小説は大したことないし、総理にはなれないし。なんにもやるな、っていってるんだよ」いくら盟友とはいえ、あまりに辛らつな言葉。それが、「あれは彼特有の愛情表現なんですよ。石原さんも、それが努力に裏打ちされた知識ゆえの発言と理解しているから、怒るどころか、はいはいって許してしまうんですよ」(前出・落語関係者)※女性セブン2011年12月15日号
2011.12.04 07:00
女性セブン
立川談志 師匠・柳家小さんから破門された回数は80回超えた
立川談志 師匠・柳家小さんから破門された回数は80回超えた
11月21日に喉頭がんのため亡くなった立川談志さん(享年75)。風雲児と呼ばれた彼の生き様は、時に荒々しく、でも優しく愛すべきものだった。談志さんが、落語の世界に足を踏み入れたのは16才のこと。高校をわずか1年で中退し、新宿・末廣亭の支配人だった芸能評論家の真山恵介氏の世話で5代目・柳家小さんに入門した。「見習い」「前座」「二つ目」「真打」と階級がもうけられている落語の世界。小さんと初対面したとき、名跡の「小三治をくれ」と平然といったという談志さん。入門するやすぐに頭角を現し、前座となった初の高座から好評を博した。しかし同時に談志さんの素行の悪さが問題となりはじめる。若手を集め、覚えやすいようにと、噺を区切って教える7代目・林家正蔵に対して、「師匠、しみったれないで、一気に教えてくださいよ」と平気な顔で注文をつけた。宴席に30分も遅刻し、当時の落語協会会長の8代目・桂文楽に「いまの若い者はなっちゃいねぇ」と怒鳴られても、しょげずに最後まで残って平然と酒を飲み、料理を食べた。代役で特別出演を頼んだ大先輩の2代目・桂小金治(85)には、「落語を忘れた兄さんを救うために、あたしの親切心から、会に呼んだのだ」と啖呵を切る。当然、師匠である柳家小さんとも幾度となくトラブルを起こし、破門された回数は80回を超えた。それでも談志さんは小さんに怒られる度に、「あたしも師匠の年になればわかりますよ」と返した。1954年3月に二つ目まで昇格したものの、芸の力があるが他に問題があるという声もあがって、真打となるまで通常の倍近くの10年もかかった。さらには、5年も入門が遅い3代目・古今亭志ん朝に真打昇進で先を越されるという屈辱も味わっていたのだ。※女性セブン2011年12月15日号
2011.12.01 16:00
女性セブン
立川談志のベスト名席 落語事情通は「居残り佐平次」あげる
立川談志のベスト名席 落語事情通は「居残り佐平次」あげる
「立川雲黒斎家元勝手居士」。生前から本人が決めていたという戒名は、いかにも立川談志(享年75)らしいものだった。「100年に1人の逸材」と呼ばれ、名人の名を恣(ほしいまま)にしたその名席ベスト5を、週刊ポストで『噺家のはなし』連載中の広瀬和生氏に挙げてもらった。* * *【1】居残り佐平次【2】粗忽長屋【3】三軒長屋【4】芝浜【5】紺屋高尾【1】は、「人間の業」を肯定する演目として、「家元の落語の集大成といえるもの」と広瀬氏は絶賛する。「家元が作品を演じるということではなく、立川談志という身体を借りて、高座の上で極めていい加減な野郎が暴れまくる痛快さ。これが談志落語の神髄の一つ」【2】は、家元の「この男は本当に粗忽なのか?」という分析で始まる。そのアプローチが、今までにない落語の地平を開いたと広瀬氏。「慌て者とかそそっかしいというレベルではなく、主観が強いという言い方を家元はします。要は自分の頭のなかで、こうだと思ったら、他人がどういおうとそう思い込んでしまう人間の本質を浮き彫りにしている」【3】「例えば、登場する鳶の頭のおかみさんが自分のことを『俺』という。一見、実に乱暴な表現ですが、一方でいい女なのです。乱暴で粗野だけど色気が感じられる。さらに鳶の若い衆らが演じるドタバタ劇が実に生き生きと江戸を感じさせる。これは家元が江戸の風を身体で理解しているからこそ、演じられたのです」【4】「家元は『芝浜』を美談として演じていない。誰が演じても美談である演目を一旦疑ってかかって、壊して進化させていく。他の落語家との決定的な違いは、家元の魚屋夫婦は貧乏に耐えかねて本気で死のうとする。この辺りの真に迫った演じ方は本当に貧乏を体験した者にしか分からないものだと思います」【5】「『伝統を現代に』という家元の考えが、同時代の女性が観客として『そうだよね、分かる、分かる』と共感できるものに昇華している。これは家元の大きな功績の一つでしょう」※週刊ポスト2011年12月9日号
2011.11.29 07:00
週刊ポスト
立川談志 湾岸戦争で米国、海部元首相らを川柳で皮肉っていた
立川談志 湾岸戦争で米国、海部元首相らを川柳で皮肉っていた
落語家の立川談志さん(75)が、21日に喉頭がんのため死去した。落語だけでなく、テレビタレントとしての活動も行い、1971年には参議院議員に当選するなど、幅広く活躍した。そんな談志さんは毒舌でも知られていたが、1991年、湾岸戦争開始直前、当時の米国大統領であるジョージ・ブッシュ氏や、時の内閣に対し、諦めの境地にも達した川柳を詠み、自らその句を解説していた。(週刊ポスト1991年1月1日号より)* * * 前科者 現行犯に 文句言い――ブッシュ ジャングルは 懲りたが 砂漠はまだ懲りず――ブッシュ 人質を 猪木に託す 情けなさ――内閣 アラブ語は 読めず フセインは なお読めず――海部首相 いい機会(チャンス) いっそやるかと 自衛隊 国連は 国連のために あるところ句の心は、読めば一目瞭然でわかってもらえるでしょう。説明するまでもない。一句目は、これまでさんざっぱら(他国にちょっかい出したり、戦争したり)をやってきた米国なのに、自分のことは棚に上げ、フセインを批難している滑稽さ。二句目のジャングルとはベトナムのこと。三句目は、内閣というより、国民とした方がいいかもしれない。川柳は素直に詠めればいいんだが、一面、パロディでもある。有名な句や詞をパロッて洒落のめすことも必要。その時代、その場だけにしかわからない意味や面白さを、当意即妙にたくさん詠んでいうく中に、古典的名作が出てくるもんだ。その時だけで消えてしまうが、その時のできごとなどを痛烈に批判するのが、川柳の持ち味と心得る。俳風柳多留や西鶴の連句にしろ、芭蕉の連句、俳句にしろ、その時、その場でしか本当の面白さはわからないものだった。その中から、永遠に残っていく作品が生まれている。江戸時代の“座の文学”の伝統を受け継いでいるのが川柳だ。
2011.11.23 22:45
NEWSポストセブン
古き良き江戸落語を今に伝える通好みの本格派・五街道雲助
古き良き江戸落語を今に伝える通好みの本格派・五街道雲助
 広瀬和生氏は1960年生まれ、東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。30年来の落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接する。その広瀬氏が「通好みの本格派」と評するのが、五街道雲助だ。 * * * 江戸っ子が近所の寄席で楽しむ芸能として発展した江戸落語は、戦後日本人のライフスタイルが変容する中で、ラジオ、テレビ、レコードなどによって全国的に普及し、「日本の娯楽」として広く認知された。 江戸の地域芸能だった落語が「日本のエンターテインメント」としての普遍性を獲得する過程で、歴代の優れた演者たちは、ともすれば失われがちな「江戸落語の美学」を守り抜き、落語通はその「江戸っ子の了見」を賞賛した。 日本全国を相手にする芸能になったからといって、江戸の地域芸能という原点を見失っては、落語が落語である意味が無くなる。江戸以来の伝統の上に成り立つ普遍性の獲得でなくてはいけない。 立川談志は近年の著作で、それを「江戸の風」と表現した。落語とは、江戸の匂い、江戸っ子の了見、寄席の雰囲気などが一つになった「江戸の風」の中で演じられるものである、と。そして、「江戸の風」を感じる現代の噺家の一人として、談志は五街道雲助の名を挙げている。 雲助は1948年に東京下町の本所で生まれ、1968年に十代目金原亭馬生に入門。前座名は金原亭駒七で、1972年の二ツ目昇進で五街道雲助と改名、1981年に真打。古き良き江戸落語を今に伝える「通好みの本格派」だ。 五街道雲助とは変わった名前だが古くからある名跡で、当代は六代目。もっとも、はっきりした文献が乏しく、「六代目」というのは師匠である十代目馬生が「六代目でいいだろう」と決めたそうだ。「落語は江戸東京の感覚に根ざした地域芸能であるという一面を残しておきたい」という五街道雲助。その武骨な演出は、「現代のエンターテインメント」としての落語に慣れている観客には取っ付きにくいかもしれない。だが、そこには間違いなく「江戸の風」が吹いている。落語にのめり込んだ「ファン上級者」なら、聴いておくべき演者である。※週刊ポスト2011年9月16・23日号
2011.09.08 07:00
週刊ポスト
粋でいなせな「江戸っ子」演じて最も似合う噺家は春風亭一朝
粋でいなせな「江戸っ子」演じて最も似合う噺家は春風亭一朝
 広瀬和生氏は1960年生まれ、東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。30年来の落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接する。その広瀬氏が「粋でいなせな江戸落語」と評するのが、春風亭一朝だ。 * * * 江戸前の芸、という言い方がある。「江戸前」とは江戸近海(芝、品川あたりの海)もしくはそこで取れた新鮮な魚のことで、転じて「江戸独特の流儀」を指す言葉となったわけだが、落語で「江戸前の芸」というと、そこに「江戸っ子の気っ風の良さ」のイメージが加わる。 イキが良くてキレがある「これぞ江戸前の芸!」という落語が聴きたければ、真っ先にお勧めしたいのが春風亭一朝。今をときめく若手のホープ春風亭一之輔の師匠としても知られる、1950年生まれの噺家だ。 一朝は、亡き五代目春風亭柳朝の一番弟子。もともと八代目林家正蔵(後の彦六)への入門を希望していたが、1968年当時、正蔵が新たな弟子を取る余裕が無かったため、一門の総領弟子である柳朝に入門することになったのだという。 1973年、二ツ目昇進に際して「春風亭一朝」を襲名、1982年に真打。「一朝」という名は、八代目正蔵が若き日に芝居噺や怪談噺を教わり、晩年の面倒を見た三遊一朝(1930年没)から譲り受けたものだ。 五代目柳朝は60年代に古今亭志ん朝、立川談志、五代目三遊亭圓楽らと共に「若手四天王」と称され、その威勢のいい芸風から「江戸前の噺家」の典型とされた。柳朝の落語家人生を描いた吉川潮氏の小説のタイトルは、そのものズバリ『江戸前の男 春風亭柳朝一代記』である。 一朝は、その柳朝の「江戸前」の芸風を見事に受け継いでいる。啖呵を切る威勢の良さは天下一品、「江戸っ子」を演じたらこれほど似合う噺家も珍しい。まさに「粋でいなせな江戸落語」の典型だ。※週刊ポスト2011年9月9日号
2011.09.02 07:00
週刊ポスト
わかりやすい立川談四楼の落語は「初心者に優しい落語」
わかりやすい立川談四楼の落語は「初心者に優しい落語」
 広瀬和生氏は1960年生まれ、東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。30年来の落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接する。その広瀬氏が「現代人がすんなり受け入れられるようアレンジされた「台詞」の巧妙さに舌を巻くのが、小説家・立川談四楼だ。 * * * 1983年に立川談志が創設した「落語立川流」は寄席の定席には出ない。ゆえに立川流創設以降の弟子は「寄席知らず」だが、それ以前に入門した弟子は寄席の世界で修業している。志の輔、談春、志らく、談笑ら「寄席知らず」世代の活躍が目立つ談志一門だが、「寄席育ち」世代にも魅力的な演者は多い。 連載コラムや書評など、文筆業での活躍が顕著な立川談四楼。彼は、談志一門の「寄席育ち」世代を代表する本格派の演者だ。 1951年生まれで、1970年に談志に入門。同期の噺家には「寄席の帝王」柳家権太楼がいる。談志が落語協会を脱退しなかったら、今ごろ談四楼も権太楼に負けじと寄席の世界を大いに盛り上げていたことだろう。 もっとも、談志が落語協会を脱退したのは、自分の弟子(小談志、談四楼)が真打昇進試験で落とされたからで、つまり談四楼は立川流創設のきっかけを作った「当事者」だ。この顛末を談四楼は小説『屈折十三年』として「別冊文藝春秋」に発表し、84年には小談志ともども立川流の認定する真打の第一号となった。「落語も出来る小説家」のキャッチフレーズで作家としてのキャリアを順調に築いている談四楼だが、あくまでも本業は落語。各地で精力的に独演会を行なっている談四楼の活躍ぶりは、立川流の「寄席育ち」世代の中では突出している。 談四楼の落語の最大の特徴は「わかりやすさ」だ。 それぞれの噺を、談四楼は必ず自分の中で咀嚼し、現代人が共感しやすいものに変換して観客に提示する。といっても、通俗的な「わかりやすさ」を狙って江戸落語の美学を損なうようなことはしない。伝統を踏まえながら、言葉遣いや演出を工夫することで、現代人がすんなり受け入れられるようアレンジする。そこで発揮される言語センスは、まさに作家ならではのものだ。 談四楼は「地の語り」、つまり演者本人が観客に直接語りかける部分の使い方が巧みだ。古典には、初心者には馴染みの無い表現がどうしても出てくるが、談四楼は自然な流れで地の語りを挟み込んで解説を加え、噺の背景にある概念や因習の違い等を教えてくれる。だから、落語に無縁で生きてきた若者でも、すぐに入っていける。つまり、「初心者に優しい落語」なのである。※週刊ポスト2011年9月2日号
2011.08.26 16:00
週刊ポスト
立川談笑は古典落語を現代人にウケる話に改作する達人
立川談笑は古典落語を現代人にウケる話に改作する達人
 広瀬和生氏は1960年生まれ、東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。30年来の落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接する。その広瀬氏が「改作の達人」と評する落語家が、立川談笑である。 * * * 立川志の輔・立川談春・立川志らく。この三人が立川流の俊英三羽烏だが、彼らに続く「第四の男」として確固たる地位を築いているのが、改作落語で人気の立川談笑だ。1965年生まれ、東京出身。早稲田大学法学部卒業後、予備校講師をしながら法律家を目指したが、1993年に立川談志に入門。1996年に二ツ目、2005年に真打に昇進している。 談笑は落語界で最もアグレッシヴに「現代における大衆芸能としての落語のあり方」を追究している演者の一人だ。彼は落語常識に囚われない自由な発想で古典落語を「現代人にウケる噺」に作り変える。滑稽噺から大ネタ、人情噺に至るまで、談笑が手がける古典は数多いが、それはすべて大胆な「改作」だ。「現代人のための古典の再構築」の先駆者に立川志らくがいるが、彼の根幹にあるのは強烈な「落語愛」だ。「古典落語は優れたエンターテインメント。もしも現代の観客に通じないとすれば、それは演者の怠慢である」と志らくは考える。 一方、談笑の原点には古典への「懐疑」がある。「現代人が古典を古臭いと感じるのはむしろ当たり前。だが、工夫すれば面白くなる」これが談笑の発想だ。 たとえば古典の名作『芝浜』にしても、談笑はまず「いくら酒浸りでも、夢と現実の区別が付かないのはおかしい」と疑ってかかる。「なのに亭主は女房の『財布を拾ったのは夢』という主張を受け入れた。何故?」――そういう発想で談笑の「改作」は展開し、「論理的に正しい解答」となるべき新演出に到達する。古典に違和感を覚えながら、古典から逃げない。それが談笑だ。※週刊ポスト2011年7月1日号
2011.06.23 16:00
週刊ポスト
名人・古今亭志ん朝の遺伝子を最も強く感じさせるのは志ん輔
名人・古今亭志ん朝の遺伝子を最も強く感じさせるのは志ん輔
 広瀬和生氏は1960年生まれ、東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。30年来の落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接する。その広瀬氏が「古今亭志ん朝の意志を継ぐ」と評する落語家が、古今亭志ん輔である。 * * * 2001年10月の古今亭志ん朝の死は落語界にとってあまりに大きな損失だったが、この一門にはその半年前に、もう一つの悲劇が襲っていた。志ん朝の弟子の右朝が、肺ガンのため52歳で亡くなったのだ。右朝は立川談志をして「こいつは天下を取る」といわしめた逸材だった。今なお「右朝が生きていれば……」と惜しむ落語ファンは少なくない。 昨年は一門の総領弟子の志ん五が上行結腸ガンのため61歳で亡くなっている。与太郎噺で売れた人気者で、近年は志ん朝十八番に意欲的に取り組み、落語界で存在感を増していた矢先だった。 悲運の志ん朝一門。だが「師の遺志を継ぐ」優れた弟子は他にもいる。その筆頭が、古今亭志ん輔。1953年生まれで1972年に志ん朝に入門し、真打昇進は1985年。落語家としては今、最も脂の乗り切った時期だ。 滑らかな語り口と軽やかなトーンの心地好さ。デフォルメとリアリズムを自在に使い分ける人物描写の見事さと、細部にこだわった演出。古典の伝統にわずかな「現代の息吹」を入れ、充分に「気持を込める」ことで観客の心をワシ掴みにする志ん輔は、一門の中で最も「志ん朝の遺伝子」を色濃く感じさせる。『お見立て』『船徳』『明烏』『井戸の茶碗』『宿屋の富』『お直し』『子別れ』『文七元結』『幾代餅』『唐茄子屋政談』『三枚起請』『佃祭』『酢豆腐』等々、志ん輔の得意ネタの多くは、志ん朝十八番として知られる演目だ。僕は、そうした噺での志ん輔に、まごうことなき「志ん朝の遺伝子」を感じる。 手や首の動かし方など、志ん輔に「志ん朝の仕草」を感じることは多いが、そうした表面的な類似ではなく、もっと本質的な「気持ちの入り方」や「噺の捉え方」といった部分を、志ん輔は師匠から真っ直ぐ受け継いでいるという気がするのだ。※週刊ポスト2011年6月17日号
2011.06.08 07:00
週刊ポスト
柳家喬太郎 古典落語と新作落語のどちらを演っても観客を魅了
柳家喬太郎 古典落語と新作落語のどちらを演っても観客を魅了
広瀬和生氏は1960年生まれ、東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。30年来の落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接する。その広瀬氏が「必ず観客を魅了する」と勧めるのが、柳家喬太郎である。* * * 現代の「落語ブーム」を象徴する人気落語家に、柳家喬太郎がいる。喬太郎は1963年生まれ。1989年に柳家さん喬に入門し、2000年に真打昇進。2004年度から3年連続で国立演芸場花形演芸大賞を受賞している。彼は落語という芸能のポテンシャルを最大限まで引き出す演者だ。さん喬は大ネタ人情噺を得意とする現代の「正統派古典落語の雄」。その一番弟子にふさわしく、喬太郎も古典の名手である。だがその一方で、「新作落語の教祖」三遊亭圓丈に衝撃を受けて新作落語を志した喬太郎は、自ら「圓丈チルドレン」と称する新作派の一員でもある。もともと喬太郎が頭角を現わしたのは、その斬新な新作落語が人気を集めたからだ。伝統を背景にした古典落語と、現代を素材にした新作落語。喬太郎はそれをほぼ半々の割合で演じ、どちらを演っても必ず観客を魅了する。だが、それらに加えてもうひとつ、喬太郎には大きな武器がある。それは、マクラの面白さだ。本来「噺のマクラ」というのは落語本編に入る前の短い導入部に過ぎなかった。ところが、往年の立川談志が落語とは関係ない漫談を延々と語るスタイルを始めてから、次第にマクラで個性を発揮する演者が増えてきた。若き日の春風亭小朝はモダンなマクラで売れたし、現代には「マクラの小三治」もいる。喬太郎も、志の輔と同じく「マクラ・新作・古典」の三者が一体となった「喬太郎ワールド」で観客を魅了する、極めてエンターテインメント性の高い演者である。ただし、老若男女すべてに愛される「志の輔らくご」と違い、「喬太郎ワールド」は、かなりマニアックだ。喬太郎の新作には、ひたすらシュールなものもあればバカバカしくナンセンスなものもある。自作の『東京ホテトル音頭』を唐突に唄って唖然とさせたかと思えば「現代の人情噺」的な感動ストーリーで涙を誘い、胸キュンのラブコメで心をホッコリさせてくれることもある。この「振り幅の大きさ」こそ、喬太郎落語の真骨頂だ。※週刊ポスト2011年3月25日号
2011.03.16 07:00
週刊ポスト
観客の「感動させてくれ!」要求に最も応える落語家は立川談春
観客の「感動させてくれ!」要求に最も応える落語家は立川談春
 広瀬和生氏は1960年生まれ、東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。30年来の落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接する。その広瀬氏が「感動」を味わいたい人に勧めるのが、立川談春である。 * * * 古典落語の大ネタの数々で大観衆を魅了する「平成の名人」候補、立川談春。彼は現代の落語人気を象徴する落語家だ。 21世紀に入り、それまで落語というジャンルに興味を持っていなかった新たなファン層が、大量に落語の世界に流入してきた。いわゆる落語ブームとは「落語という未知のエンターテインメントの発見」であった。 新世代の落語ファン層の中核を成していたのが、エンターテインメントに対して貪欲な20~40歳代の「妙齢の女性たち」である。彼女らは、演劇を楽しむのと同じ感覚で、落語のライヴに足を運んだ。 そこで彼女らが発見したのは、「落語が与える感動」だった。 女性に限らず、現代のエンターテインメントにおいて、観客が最も求めているのは「感動」である。現代の落語ファンの最大の特徴は、「落語に感動を求める」ことにある。 その、現代の観客の「感動させてくれ!」という要求に、最もストレートに応える演者が、立川談春だった。彼は、古典落語の大ネタが与える「ドラマティックな感動」を、個性的な台詞回しと卓越した話芸のテクニックで鮮烈に表現し、落語という芸能の奥深さを知らしめた。 落語の真髄は人情噺よりも滑稽噺にこそある。そして、僕は談春の滑稽噺のバカバカしさをこよなく愛している。しかし、落語の世界に現代の観客を誘う「入り口」として、談春が『文七元結』『妾馬』『芝浜』『紺屋高尾』といった人情噺で与えたドラマティックな感動が、重要な役割を果たしたのは間違いない。 1984年に17歳で立川談志に弟子入りした談春は、キレのいい口調と骨太の芸風で二ツ目時代から「大器」と評されていたが、後輩の志らくに真打昇進で先を越されるなど、長く不遇の時代を過ごした。大きく飛躍したのは、21世紀に入ってからだ。 卓越したテクニックに内容が伴い、真のスケールの大きさを示すようになった談春は、入門20周年に当たる2004年を節目として快進撃を開始、新たに落語に興味を持って流入してきた新規の客層を魅了した。 談春は、伝統芸能としての「話芸の粋」を体現する落語家だ。「名人」候補、と言われる理由はそこにある。※週刊ポスト2011年3月18日号
2011.03.11 07:00
週刊ポスト

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