「2012年の村田は一見打っていないように思えますが、5月終了時で打撃成績10位に入っていました。この年は統一球でボールが飛ばなかったため、悪い数字ではなかった。チームも、首位・中日を2.5ゲーム差で追う2位。この年は阿部慎之助が打率と打点の2冠王を取っていますし、坂本と長野が最多安打を分け合った年。相手投手が他の打者へ神経をすり減らすため、村田へのプレッシャーが軽減された部分もありました」
1994年の落合は4月終了時点で2割2分、4本と打てていなかったが、チームが好調だったため、不調はかき消され、5月に盛り返している。2000年の江藤は4月終了時点で2割3分9厘、4本と好調からは程遠かったが、5月に7本塁打を放ち、途中チームが首位に立つ時期もあった。
「2012年の村田と同じく、他の打者にも助けられた面もある。この年は松井秀喜ががっしりと4番に座り、マルティネスも猛打を奮い、高橋由伸もいた。それに加え、清原和博がケガで2軍生活を余儀なくされ、マスコミや世間からのバッシングを浴びていた。清原が江藤の隠れ蓑になっていた面もあった」
江藤は優勝を決めた9月24日の中日戦で9回裏に同点満塁弾を放つなど勝負強さを発揮。自身は4年ぶりに大台の30本塁打を超え、チームも6年ぶりの日本一に輝いた。
一方で、波に乗れなかった選手もいる。ヤクルトから移籍した1995年の広沢、西武から移籍した1997年の清原だ。
「清原は自分が打てない上に、チーム状態も上がらなかった。シーズン前、ぶっちぎりの優勝を予想され、期待も大きかっただけに、全責任を背負い込む形となってしまった。シーズン終盤に復調して、32本塁打、95打点を挙げたが、序盤の打撃不振がチームの成績(最終順位は4位)に結びついたと見られてしまった」
広沢は4月終了時点で、2割7分4厘、3本と悪くない数字だった。しかし、5月に入って打撃不振に。チームはそれでも2位に付けていたが、首位・ヤクルトと5.5ゲーム差を付けられていた。