【著者に訊け】山口由美氏・著/『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』/小学館/1680円
そもそもは、旅の人だ。箱根富士屋ホテルの創業者一族に生まれ、ホテルや建築関係の著作も多い山口由美氏(50)。10代の頃から世界を旅して回り、出会いと別れを日常的に繰り返す彼女には、偶然であれ必然であれ、「その人が、そこにいることの奇蹟」が、より肌身に迫るのかもしれない。
1971~1974年、ユージン・スミスは水俣にいた。平和への祈りを戦場の悲惨さではなく、幼気な兄妹の後ろ姿に託した『楽園への歩み』(1946年)等で知られた53歳の巨匠の傍には、21歳の妻アイリーン・美緒子・スミス氏と、同じく21歳の写真家・石川武志氏もいた。3人は月ノ浦という一角に民家を借り、当初は一つの布団に川の字で眠りもしながら、水俣病、ではなく、そこに生きる人々を撮った。
そしてユージンの遺作ともなる『MINAMATA』(1975年)を軸に、彼と彼女と彼が共に過ごした日々を、本書『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』は追う。それは1枚の〈「封印」された写真〉の謎をめぐる旅でもあった。
旅のプロは、自称「ダンボール好き」な人でもある。山口氏は、その理由をこう語る
「例えば私が富士屋ホテルで最も好きなのが資料室の倉庫。昔の伝票類がダンボールごと残っていたりすると、もう宝箱を見つけたみたいに興奮しちゃって! そのおかげで書けたのが日本の近現代史の裏舞台を書いた著書『クラシックホテルが語る昭和史』でしたし、“わからない”または“表に出ていない”事柄があると、俄然燃えるタイプです」
2011年秋、アリゾナ州ツーソンでユージンの遺品と格闘した時も、ダンボールは〈宝の山〉だった。彼女は件の1枚〈「入浴する智子と母」〉がどのように撮影され、なぜ封印されたか、当時のメモや膨大なネガを繰りつつ、謎の真相に迫っていく。
太平洋戦争中は主に南方に従軍し、沖縄戦を撮影中に瀕死の重傷を負ったユージンは、水俣でも陽気な人柄で愛される一方、固形物はほとんど食べられず、毎日10リットル飲む牛乳とウイスキーを主食にする満身創痍にあった。そして1974年に帰国後、アイリーンとの離婚を経て1978年に59歳で亡くなるが、死後もなお『MINAMATA』の評価は高い。
なかでも代表的な1枚が、胎児性水俣病の娘と母親の聖なる一瞬を切り取り、“現代のピエタ”とも称された「入浴する智子と母」だが、1997年に『二〇世紀一〇〇枚の写真』に選ばれながらも辞退するなど、公には発表できない写真となっている。
「写真は今でもネットで簡単に見られるのに、正当な発表や研究ほど制限される。何とも矛盾にみちた封印なんですね。その背景には、写真が有名になり過ぎたために地元で誤解を受けた御両親の〈智子を休ませてあげたい〉という希望や、共著者アイリーンが〈決定権〉を譲渡した覚書の存在があり、詳細は本編をお読み頂きたい。ただ今回の取材の結論を言えば、あの写真だけが決して『MINAMATA』ではない。さらにあの写真自体、少なくとも撮影された時は、誰からも否定されていなかったこともわかったんです」
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2013年6月14日号