村上はこう話していたが、これがメジャーでプレーするための契約書だった。翌日のメッツ戦でメジャーデビューを果たすと、9月29日のコルト45’S(現アストロズ)戦で初勝利。この年は9試合に登板し、1勝1S、防御率1.80の好成績を残した。
ジャイアンツは翌年も村上との契約を望んだ。実は留学生受け入れにあたり、南海とは「メジャーに昇格した選手がいたら、ジャイアンツが1万ドルで買い取れる」という取り決めがあった。そのため1万ドルを支払ったが、ここに来て南海も村上を手放すのが惜しくなった。
結果、なんと南海も村上と契約。村上はいわば、日米での二重契約のような形になってしまった。一度は1万ドルを受け取っていたあたり、さすが商魂逞しき南海らしいといったところだが、ともかくこのゴタゴタが影響し、1965年終了をもって日本帰国が命じられる。結局、メジャーでは2年で5勝1敗、防御率3.43という成績に終わった。
偉業を達成しながら、「契約でゴタゴタを起こした男」というイメージがアメリカで先行してしまったのは気の毒だった。その後1995年の野茂英雄まで、日本人メジャーリーガーが誕生しなかったのは、「日本人と契約すると揉める」というイメージが強かったためだとも聞く。
※週刊ポスト2014年3月21日号