もちろん、場合によれば米国からの要望が日本の国益にも適うことはあるだろう。それらは何よりまず、日本の状況や事情に即して「われわれ」が定義すべきものであって、他国からいわれることではない。しかも、今日のようなパワーポリティックス(軍事力や経済力を背景に展開する権力政治)が支配的となった国際関係にあっては、これらの言葉も、往々にして自国の権益を追求し、他国に圧力をかける口実になるのである。
日米関係は、占領政策以来、政治的にも軍事的にも、そして何よりも精神的に決して対等ではない。かつて江藤淳が述べていたように、米国からは、日本国内の状況があたかもガラス張りであるかのように眺められる。しかし、日本人はそれを知らずに自分たちで自由に論議し、決定しているかのように思わされている。
そうしてリモートコントロールにかかったように、日本国内の世論や議論が自発的に米国の要望に誘導されてゆくのである。かくて「自発的従属」という構造ができあがってしまった。
そのような「自発的に誘導されていく様子」は近年、いっそう著しい。1990年代の構造改革では、もともと対日赤字の解消と経済再建を目指していた米国の要請(日米構造協議)は、「日本の経済構造は遅れている」、「世界標準になっていない」、「自由な市場競争という正義に適っていない」、さらには「構造改革は日本の消費者のためになる」という文句を並べ要求を迫るものだった。
やがてその要求は日本の大新聞の主張となり、経済学者やジャーナリストも支持した。そして彼らは「日本の経済構造はいまだに『戦時体制(40年体制)』である」と主張するようになった。
またTPP論議が始まったころ、「日本の開国」を求める論調が中心になった。そこには「閉鎖的で後進的な日本」を市場開放し、自国企業の参入をはかる米国の意図が背景にあった。日本のジャーナリズムは先導して「平成の開国」を唱え、「日経」や「読売」は当然として、「朝日」を含めた5大新聞はこぞってTPPに賛同した。各紙とも「アジアの活力を取り込め」、「自由貿易の流れに乗り遅れるな」と訴えたのである。
※SAPIO2014年8月号