指名された直後に高らかに目標を掲げて、その通りになった選手もいる。ヤクルトの「トリプルスリー」男・山田哲人選手は2010年ドラフトで指名されて、
「まさか1位指名とは思わなかったので嬉しい。期待を裏切らないようにヤクルトに欠かせない選手になりたい」
と、その通りの選手になった。ちなみに山田選手はヤクルトが指名競合した斎藤佑樹投手、塩見貴洋投手のくじに負けて、「外れ外れ1位」だった。
10年以上プレーし続けた選手はドラフト時のコメントにも味がある、と思わせてくれたのが、今季のプロ野球界の天下人、ソフトバンクホークスの工藤公康監督のドラフトである。それはまさに「工藤劇場」ともいいたくなるような入団劇だった。
プロ志望届もない1981年のドラフト会議の4日前、突然工藤家が指名挨拶のない日本ハム、大洋(当時)、ロッテを除く9球団に「指名お断り」の文書を発送する。理由は甲子園出場後に慢心の気配がする工藤の人間形成のために、社会人野球の熊谷組に進ませたい、という父親の意向だった。工藤はドラフトの目玉とも言われていただけに、残念がるスカウトもいた。
しかしドラフトでは西武が6位で工藤を強行指名する。「交渉に来られても玄関には入っていただくが、家には上げません」と頑なな態度を崩さない工藤父。しかし交渉に入るや、次第に態度を軟化させ、入団に前向きとなっていく。もともと他球団に指名させないための「芝居」だったのではないかという疑惑が浮上し、「バカバカしい」というヤクルトスカウトのコメントが紹介されている。
これで一転して入団かと思いきや、そこは工藤劇場たるゆえん、「当て馬」にされた熊谷組が「うちに入社する約束をしている。二重契約ではないか」とゴネだした。しかも西武が工藤家に渡した契約金6000万円の小切手を保管しているという。
「なぜうちが工藤さんに渡した小切手を熊谷組が持っているのか、意味がわからない」
という西武フロントの戸惑いに爆笑した。そりゃたしかに意味がわからない。結局、工藤父があちこちに頭を下げて周り、熊谷組も大人の配慮をして丸く収まった……とはならず、工藤劇場の第三幕があがる。
今度はなんと、工藤が通っている名古屋電気工業(現・愛工大名電)高校の校長先生が「今回の事態は学校側として遺憾に思う」という文書をメディアに公表したのである。高校生が在籍している学校の校長先生に公然と批判されるというのは、前代未聞だろう。予期せぬ伏兵の登場に、またもや頭を下げて回る工藤父。その間には工藤が学校の許可無く自動車教習所に通っていたことが発覚し、校則違反の処罰として丸坊主にされるというオマケもついた。
ようやく入団記者会見にこぎつけたのは、なんとドラフト翌年の1月12日だ。ドラフト会議が11月25日と遅いこともあるが、すったもんだあった影響は大きい。その入団記者会見に際して、あちこちに迷惑をかけたのだから殊勝な態度で臨むかと思いきや、さすが工藤は違う。
「(目標となる選手は)いません。目標とする人を作ると、その人のまねをするだけで超えることはできないから、それより自分だけの独特の型をもちたい」
「ライバルはいません。自分のことだけを考えて、結果的に勝てればいい」
と言いたい放題。これには西武フロントの坂井保之球団社長(当時)も、
「今日は完全に完封されちゃったね。今年の契約更改が思いやられるね」
と呆然としたコメントを残し、工藤劇場のオチとなった。
もし工藤が10年かそこらで消えて無くなる選手だったら、この騒動も関係者の苦い想い出にしかならなかっただろう。しかしその後の工藤の輝かしい球歴と合わせて考えると、記者会見の言葉にも含蓄を感じ、工藤のユニークエピソードの一章となる。厳しい世界だが、勝てば黒いものも白となるというのもプロ野球の魅力のひとつである。