手紙を送る相手は、級長だった楊漢宗さん(88)を選んだ。高木さんは目が悪いため、娘の恵子さん(76)に代筆を頼んだ。恵子さんは半紙と硯を用意し、筆先に墨汁をたっぷりとつけて流れるような筆さばきで、高木さんの語る言葉を書き連ねていった。
〈春節おめでとうございます。二月十八日、はるか日本国より久方ぶりに楊漢宗様へ〉と書き始めた手紙は、
〈なつかしい烏日公学校卒業の皆様、お元気でしょうか。お伺い致します。母がまだ元気で頭脳も確かなうちに娘として知らせてやりたいです〉
と続く。かつて可愛がった教え子たちの安否を知りたいという一心だった。住所は昔のものしかわからないため、無事届くかどうか確信はなかったが、祈るような気持ちで投函した。
手紙はすぐに台湾の烏日郵便局まで届いたが、そこで配達が止まってしまった。旧住所だったため「宛先不明」となり、いったんは日本に送り返されそうになっていたのだ。だが、ここで一つの“奇跡”が起きる。いつものように郵便物の仕分け作業をしていた郵便局員の郭柏村さん(28)は、宛先不明の郵便物を集める箱のなかに高木さんの封筒を戻したあと、封筒の存在が心のどこかに引っかかったという。
「日本から届いた毛筆の分厚い手紙だったので、それを送り返してしまうのは、何かいけないことをしているような気がしたんです」
先輩職員にどうするべきか相談したところ、上司の陳恵澤さん(55)が近づいてきて、封筒をまじまじと見た。
「一目見て、この手紙は大切なものに違いないと直感しました」
陳さんは何としても今の住所を探そうと号令をかけ、郵便局員たちは配達の合間に、一軒一軒回っては聞き込みをし、訪ね先を探して回った。そして10日間ほどかけて、ようやく郭さんは楊漢宗さんの息子さんの楊本容さん(68)のもとへとたどり着き、手紙を届けた。楊本容さんが、パーキンソン病で入院中の父・楊漢宗さんに手紙を見せると、手紙を見つめながら息子の手を握り、口元で「家に帰ってまた見る」と囁いた。
この一件は、台湾で大ヒットした映画『海角七号』(※注)の「現実版」として話題を呼び、台湾の新聞やテレビなどで大きく取り上げられた。だが、物語はここで終わらなかった。
【※注:終戦直後の台湾で、日本人男性教師が、恋仲にあった台湾人女学生宛てに手紙を書いたが届かず、現代の台湾の郵便局員が、「海角七号」という日本統治時代の住所をたよりに送り届ける物語。日本でも2009年に公開された】
(後編に続く)
文◆西谷格(ジャーナリスト。『この手紙、とどけ!~106歳の日本人教師が88歳の台湾人生徒と再会するまで~』著者)
※週刊ポスト2016年2月19日号