「主人に伝えると、優しく抱きしめてくれました…(涙ぐんでしばらく沈黙して)今も、家事を手伝ってくれたり、重いものを持ってくれたり。まあでも、今は息子がいるから主人の出る幕はあまりなくなっちゃいましたけどね、アハハハハ。でも、乳がんがわかっておっぱいがなくなったら別れたいっていう旦那さんもいるって聞きますけど、うちは絆が強まったかな。若い頃はけんかばかりしてましたけどね」
そう言って泣き笑いになる藤田さん。発覚当時、長男は高校2年生、次男が中学生、長女が小学4年生、そして三男が生後5か月だった。闘病しながらの子育ては嵐のような日々だったはずだが、藤田さんに悲壮感はなく、むしろ時折豪快に笑いながら当時を振り返る。
「手術して抗がん剤治療をしているときは、千葉に住んでいた母が2年間、近所にアパートを借りてくれて、手伝ってくれました。母が寝泊まりするような部屋がなくて、うちに。子供もぐちゃぐちゃしていましたしね、アハハハハ。母は一人暮らしをしたことがなかったから、“案外楽しいかも”って言いながら、家事や子育てを手伝ってくれました。
下の子の散歩とかね、抗がん剤治療をすると足が自由に動かなくなるんですよね。足が溶けていくような、針でずっと刺されているような痛みがずっと続いて、歩くのがやっと。トイレにどうやって行こうっていうくらい。家の中では這いずり回っていました」
麻央もブログで、抗がん剤治療により、体力が落ち、トイレットペーパーを折るだけで力尽きてしまうと明かしている。それでも子供の運動会へ…と夢を見る。でも《もし運動会にヨチヨチ歩いていったら、れいかとかんげん、カッコ悪いママで恥ずかしいかな??》と弱音も吐いた。治療はそれほどまでに苛酷なのだ。
藤田さんは今でこそ親しい友人には打ち明けたというが、治療を始めた当初は、やはり誰にも言えなかった。
「髪の毛が抜けちゃって、容姿が変わっていく姿を見られたくないと思ったんです。髪の毛って本当に大事なんですよ。女の人は髪が命だっていうけど、本当だなって…。この坊主頭を、どうやって隠そうかって…そればかり考えていました…。