◆レーガンの隣を“強奪”
吉田氏に次いだのは、自らを「歴史法廷の被告」とした中曽根氏だ(15票)。中曽根政治といえば外交と行革。どんな“歴史の審判”が下ったのだろうか。
「私が記者時代に同行したウイリアムズバーグ・サミットの記念撮影の際、中曽根総理はさっと最前列に進み出てレーガン米大統領の横に並んだ。これは従来の慣行を破るものでしたが、日本の国際的地位を高めるきっかけになった」(真山勇一・民進党参院議員)
日本の首相がまだ米国大統領の隣に並べなかった時代だが、そんな日米関係を変えたのだという。
「日本の総理は海外の首脳に一歩退く傾向があったが、中曽根さんはレーガン、サッチャー、ミッテランといった欧米の首脳と丁々発止で対等に渡りあった」(島村宜伸・元文部相)
「国鉄、電電公社、専売公社の民営化という難題を推し進めた。私が中曽根内閣の総理府総務副長官だったとき、総理から『行革の手始めに副長官制度を廃止したい』と命じられた時のことは思い出深い」(深谷隆司・元通産相)
続く3位は田中角栄氏だ(14票)。
「今太閤」「庶民宰相」として華々しく登場し、日本列島改造論を掲げて数の力でブルドーザーのように政治を進めたが、ロッキード事件で失脚。「金権政治」の代名詞とされるなど時代による毀誉褒貶が激しい。
「政治や社会に閉塞感が強まった時に角栄ブームが起きる」とも言われる。自民党若手の野中厚・代議士の角栄評からもそれがうかがえる。
「角栄氏の時代は国全体が上を向き、政治家は予算を付け、山をくり抜いて道路を通し、国を開発していくのが仕事だった。現在の政治家は予算を減らすとか、引き算の政治。時代の求めるものが違うとはいえ、当時の政治家は手応えが感じられてやりがいがあったと思う」
いまや政界に少なくなった角栄門下生の羽田孜・元首相は、その人柄を「最も国民の生活を大切にした情の政治家」と振り返った。
※週刊ポスト2017年1月13・20日号