例えば1958年11月27日の婚約発表当日、美智子さまがひじに達していない手袋をされているのを見るや、「皇居に上がるしきたりとしては、長めの手袋にすべき」「これだから民間人は」と非難が集中した。
1960年2月に皇太子さまが誕生されたときには、報道陣の前で車の窓を開け、生後間もない皇太子さまのお姿をカメラマンに向けたことに「生まれたばかりの赤ん坊をストロボに晒すとは」との声が上がった。
それでも、美智子さまは逆風にも負けず、陛下とともに「皇室改革」に邁進された。中でも目立ったのは家庭内の変革だ。かつて、天皇家は親と子が別々に暮らすことが当たり前だった。事実、陛下は2才を迎えられたときに両親である昭和天皇と香淳皇后の元を離れられている。
だが美智子さまは、親子同居を続けられたのと同時に、「自分のお乳で育てたい」と従来の乳人制度を廃止された。すべて側近が行う宮中の伝統にあって、身近なところから変革していかれようとする美智子さまの勇気ある第一歩だった。
「赤坂御用地内に完成した新居には、居間の隣に約3畳のキッチンが設けられました。それは、“ときには手料理を”という美智子さまのご希望でした。エプロンをかけてキッチンに立たれる美智子さまのお姿に、日本国中が沸いた。戦争を経て、社会においても家庭においても女性の活躍が少しずつ認められ始めた時代。美智子さまには“皇太子妃の立場である私が先頭に立って”というお気持ちもあったのではないでしょうか」(前出・ベテラン皇室記者)
それでもまだ、美智子さまの前には数々のハードルが立ちふさがった。エプロン姿の美智子さまには「ちゃんとした調理係がいるのに、その者たちが作る料理が口に入れられぬということでしょうか」と目くじらが立てられた。
そういった改革の先頭に立たれていながら、美智子さまは謙虚な姿勢を貫かれた。