スイスでは理論上、精神疾患患者も対象枠となる。プライシック女医は、「重度の精神病患者は、末期患者と同じで生物学的に生き続けることが難しい」と語る。重度の鬱病患者は脳内物質の分泌に障害があり、それは肉体的な問題だというわけだ。だが、現実的に診断書を作成する精神科医が見つからない。隣国のベルギーとは異なり、倫理的に同意できない医師が多い。

 これらは、私が現地で得た情報と知識でしかないため、川原に事実として伝えることは可能だった。前述のエイミーとは違って、目の前の日本人女性は、解離性障害の治療を行っていないため詳述された診断書さえ持ち合わせていない。あまりにも軽はずみな思いで登録したに過ぎないことを知り、私は、「今後、どうしたいのか」と、訊いてみる。不思議にも自信を持った表情とともに、先ほどよりも大きな声で、答えた。

「今は考えていないのですけれど、本当に悪くなれば、その時は診断書も出ているんだと思います。毎日、死にたいと思っているけれど、今すぐに計画を立てなくても良いのかと。とにかく、登録できたことが(死を妨げる)抑止力になっているんです」

 この言葉に肯きつつも、彼女には他の「抑止力」がないのか、とも思う。母親とは価値観が違い過ぎ、5歳年下の弟は「堅気じゃなくて、相談しづらい」という。日常生活にも、嫌なことが多い。彼女は、力なく声を発する。

「より良く生きたい気持ちはないし、人に迷惑をかけたくないので……」

 私は、また膝元に目をやる川原に真剣に問いかける。もう一度、恋愛してみる気はないのですか? こう尋ねたのは、彼女が結婚後に抱いた「もう少し生きてもいいと思った」という、わずかながらの希望があったからだ。その心の動きが継続できる要素を、彼女は見つけていくべきなのだ。しかし、反応は、ネガティブだった。

「そんな高望みをしちゃいけない」

 川原の充血した目から、一滴、涙がこぼれた。スイスに行くのはまだ早い。彼女は、現時点で安楽死を表明すべき人間ではないと、私は感じた。だが、この言葉を放つことは、逆効果を生む。そのことも知っている。何も告げず、この場に来てくれたことに、ただ、感謝の意を示した。

 席を立って、ゆっくりと頭を下げると、川原は「ありがとうございました」といってレストランを出ていった。伝票が入った透明の筒の横には、500円玉が置かれていた。2人が頼んだハーブティーとコーヒーだけでは、その金額には届かなかった。置かれた硬貨が、とても重く感じた。私は、あえて別の500円玉を財布から取り出し、支払いを終えた。

関連記事

トピックス

第1子を出産した真美子さんと大谷(/時事通信フォト)
《母と2人で異国の子育て》真美子さんを支える「幼少期から大好きだったディズニーソング」…セーラームーン並みにテンションがアガる好きな曲「大谷に“布教”したんじゃ?」
NEWSポストセブン
俳優・北村総一朗さん
《今年90歳の『踊る大捜査線』湾岸署署長》俳優・北村総一朗が語った22歳年下夫人への感謝「人生最大の不幸が戦争体験なら、人生最大の幸せは妻と出会ったこと」
NEWSポストセブン
コムズ被告主催のパーティーにはジャスティン・ビーバーも参加していた(Getty Images)
《米セレブの性パーティー“フリーク・オフ”に新展開》“シャスティン・ビーバー被害者説”を関係者が否定、〈まるで40代〉に激変も口を閉ざしていたワケ【ディディ事件】
NEWSポストセブン
漫才賞レース『THE SECOND』で躍動(c)フジテレビ
「お、お、おさむちゃんでーす!」漫才ブームから40年超で再爆発「ザ・ぼんち」の凄さ ノンスタ石田「名前を言っただけで笑いを取れる芸人なんて他にどれだけいます?」
週刊ポスト
違法薬物を所持したとして不動産投資会社「レーサム」の創業者で元会長の田中剛容疑者と職業不詳・奥本美穂容疑者(32)が逮捕された(左・Instagramより)
「よだれを垂らして普通の状態ではなかった」レーサム創業者“薬物漬け性パーティー”が露呈した「緊迫の瞬間」〈田中剛容疑者、奥本美穂容疑者、小西木菜容疑者が逮捕〉
NEWSポストセブン
1泊2日の日程で石川県七尾市と志賀町をご訪問(2025年5月19日、撮影/JMPA)
《1泊2日で石川県へ》愛子さま、被災地ご訪問はパンツルック 「ホワイト」と「ブラック」の使い分けで見せた2つの大人コーデ
NEWSポストセブン
大阪・関西万博で「虫が大量発生」という新たなトラブルが勃発(写真/読者提供)
《万博で「虫」大量発生…正体は》「キャー!」関西万博に響いた若い女性の悲鳴、専門家が解説する「一度羽化したユスリカの早期駆除は現実的でない」
NEWSポストセブン
違法薬物を所持したとして不動産投資会社「レーサム」の創業者で元会長の田中剛容疑者と職業不詳・奥本美穂容疑者(32)が逮捕された(左・Instagramより)
《美女をあてがうスカウトの“恐ろしい手練手管”》有名国立大学に通う小西木菜容疑者(21)が“薬物漬けパーティー”に堕ちるまで〈レーサム創業者・田中剛容疑者、奥本美穂容疑者と逮捕〉
NEWSポストセブン
江夏豊氏が認める歴代阪神の名投手は誰か
江夏豊氏が選出する「歴代阪神の名投手10人」 レジェンドから個性派まで…甲子園のヤジに潰されなかった“なにくそという気概”を持った男たち
週刊ポスト
キャンパスライフを楽しむ悠仁さま(時事通信フォト)
悠仁さま、筑波大学で“バドミントンサークルに加入”情報、100人以上所属の大規模なサークルか 「皇室といえばテニス」のイメージが強いなか「異なる競技を自ら選ばれたそうです」と宮内庁担当記者
週刊ポスト
前田健太と早穂夫人(共同通信社)
《私は帰国することになりました》前田健太投手が米国残留を決断…別居中の元女子アナ妻がインスタで明かしていた「夫婦関係」
NEWSポストセブン
子役としても活躍する長男・崇徳くんとの2ショット(事務所提供)
《山田まりやが明かした別居の真相》「紙切れの契約に縛られず、もっと自由でいられるようになるべき」40代で決断した“円満別居”、始めた「シングルマザー支援事業」
NEWSポストセブン