一九九九年一月、ダシバドリは高校を中退して若松部屋に入門。明徳義塾では三年生に進級するところだったのだが、翌年には一歳多くなり高校生の試合に出場できなくなってしまうことがきっかけだった。同年四月、内田は日本大学に進学、アマチュア横綱を含め十四個のタイトルを獲得している。
高校三年生になった磯部は、金沢大会で優勝。小学六年のわんぱく横綱から続く相撲街道を、着実に進んでいた。その後は東洋大学に入学。相撲部で一年からレギュラーを務め一年時と三年時の全国大会団体優勝には貢献したものの、個人ではタイトルを獲得することはなかった。
力士になりたいと小学生のころから思っていたが、百六十七センチと低身長なためあきらめていた。しかし大学在学中の二〇〇一年より第二新弟子検査が実施されるようになり、身長問題をクリアして二〇〇四年三月、入間川部屋に入門。そのとき朝青龍はすでに五回の優勝を経験し、横綱として七場所目をむかえていた。
もしもダシバドリ選手が一九九九年度も高校生として試合に参加できていたなら、磯部選手を破っていたかもしれない。逆に、磋牙司の高校卒業時に第二新弟子検査システムがあったならば、朝青龍は丸一年の相撲界の先輩ぶりをもって磋牙司を土俵にたたきつけただろう。
五年の月日が流れる中で、二人の番付は離れ過ぎていた。その後十両に陥落した普天王と磋牙司は対戦が二度あり、磋牙司が二勝している(うち一回は不戦勝)。しかし横綱の朝青龍には、インターハイのリベンジの機会が与えられなかった。