ボーン、ボーンと響く号鐘の音が、青い海と空に吸い込まれていく。湿っぽさはないが、「最後の最後のお別れ」のときである。10回鳴り終わったとき、ハンカチを目に当てている人が、ぽつりぽつりいた。
「これより、散骨ポイントを3周いたします」
エンジンがかかり、クルーザーが動き始める。大きな円を描いて、ゆっくりと旋回する途中、「あ、あそこ」と女性の声がした。きらきらと輝く波面に、わずかに花びらがまだ散見される。それらが徐々に消えていく様を、皆が見守った。
私には、散骨が「船から遺骨を撒く」というイメージのみだったため、黙祷や汽笛、旋回など「儀式」が行われていたことがいたく心に残った。帰路のデッキで、一組のご夫婦が「娘を、ね」と話してくれた。
千葉県野田市の山本敏雄さん(77才)と敦子さん(72才)。見送った長女、祥子さんのポートレートを片時も離さずお持ちになっている。
「3人でずっと暮らしておりました。娘は8年9か月闘病し、いい病院に巡り合え、最期はホスピス。45才でした。まさか私たちよりも先に逝くとは思いもしなかったでしょうが、闘病が長いと成長させるんですね。般若心経も読んで勉強していました。親としても誇りに思いますの」と敦子さん。
散骨は、ご本人の希望だったそうだ。闘病の後期に、敏雄さんが渡したエンディングノートに、ご本人が「海洋散骨」と明記したという。
「親に迷惑をかけたくないと配慮したんだと思います。海に潜ったり、マリンスポーツをしていた子だったので『海を見て花を手向けてもらえれば充分』と。『わかった。でも全部はのめないよ。供養は私たちに任せて』と申しました。娘と私たち、両者が折り合いをつける方法をとったんです」
遺骨の半分を家のお墓に納骨し、あと半分を散骨したのだという。この日の前日が、亡くなって「百か日」だった。前々日に、元気な頃に3人で行った那須に「彼女と一緒に」旅してきたそうだ。
「親として、できる限りのことはやってあげられたと満足感はあります」
噛みしめるような口調だった。
※女性セブン2017年7月13日号