◆五十度計も瀉し(くだし)候
現代人も同じだが、こうした性格の人物は精神的なプレッシャーには必ずしも強くはない。しかも人生の多くを激動期のリーダーとして過ごした西郷は、常人にはうかがい知れないストレスからくる体調不良に悩まされ続けた。
その証拠に、主君島津斉彬の継嗣が急死して敵対勢力と抗争した1年後の安政2(1855)年、同志に送った書簡には早くも「五十度計も瀉し候」と、50回ほどトイレに駆け込んだと記される。これは前年から継続したストレスによるものと推定される。その後も2度の流島、戊辰戦争などの重圧が重くのしかかった。
なかでも最大のストレス源は斉彬の没後に実質薩摩藩の実権を握った島津久光との関係だった。元々西郷と久光は折り合いが悪く、2度目の流島生活も元は久光の怒りに触れたことが原因となった。
その不和が最高潮に達したのが、明治4年の廃藩置県だ。新政府の重鎮として目玉政策を実現する立役者となった西郷に対し、特権を奪われた久光および近臣は激怒し、廃藩後、久光は14か条にわたる詰問状を西郷に突きつけた。
その前後、西郷の体調はより悪化した。当時、戊辰戦争で心身ともに疲れ果てた西郷は暇を見つけては湯治に勤しんでいたが、明治2年、療養先の日向(現・宮崎県)の吉田温泉で「腹痛」によるひどい下痢症状となり、さらに初めて「下血」する。