ここのところ幾度となく繰り返されてきた“釈明会見”だが、今回の会見の後には異なる景色が広がったように見えた。コラムニストの石原壮一郎氏が指摘する。
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「不倫報道」というもののくだらなさが、また浮き彫りになったと言えるでしょう。1月18日発売の『週刊文春』が、音楽プロデューサー・小室哲哉(59)と看護師との不倫疑惑を報じました。グラビアページでは、腕を組んだとも言えないぐらいそっと腕を添えている不鮮明なモノクロ写真などを3ページで掲載。そのほか記事ページでは、取材で調べ上げたことや小室本人を直撃したインタビューも、4ページにわたって載っています。
いわゆる「世間の人たち」のうち、建前はともかく本音の部分で「不倫をするなんて人間として最低だ!」「不倫は絶対に許されることではない!」と考えている人の割合は、はたしてどのぐらいでしょうか。けっして大多数ではないと推察されます。しかし、誰かがテレビ番組の中で「まあ、いいじゃないか」「そのぐらい見逃してやれよ」と言ったら、偏狭な上にヒマな「正義の味方」のみなさんに、どんな攻撃を受けるかわかりません。
かくして、ワイドショーの司会者やコメンテーターのみなさんは、こういうことが起きるたびに、本音を押し隠して、眉をひそめたり非難の言葉を投げつけたりしています。そんな風潮は一般市民の生活にも広がっていて、ヘタに揚げ足を取られないように、無難な感想しか言えない世の中になってしまいました。まったく嘆かわしいことです。
19日の記者会見で、小室哲哉は「引退」を発表しました。妻であるKEIKOが、2011年10月にくも膜下出血を発症。以来6年にわたって、彼はリハビリに取り組む妻を献身的に支えてきました。最近は小室自身がしばしば体調を崩すなど、介護疲れが顕著だったという話もあります。本人が語っている「僕なりのケジメ」としてだけでなく、いろんなことに疲れてしまったのかもしれません。
小室が精神的に辛い状況にあったことは想像できるだけに、この件に対するコメントは「不倫ケシカラン」一色ではなく、同情的なニュアンスが含まれているケースが目立ちます。しかし、ストレートに同情を示して擁護するわけにはいきません。見どころは、コメントのプロのみなさんが、あの手この手で同情を滲ませているところ。そこから、大人としての遠回しな擁護の仕方や、真意のひそませ方を学びましょう。
かなり大胆に踏み込んでいたのが、18日のTBS系「ビビット」に出演したタレントのテリー伊藤。不倫疑惑を報じられた小室と妻のKEIKOについて、こう語りました。
「KEIKOさんがどこまで知っていたか、ぼくはわからないけど」「こういうことはどこの家庭でもある。倒れた人が、旦那がまだ若いから、ほかの人と遊んでもいいと思っている可能性もある」「裏切りかもしれないが、KEIKOさんからみたらホッとしているかもしれない」「これは夫婦じゃないとわからないけど」
すべて勝手な推測でありあくまで暴論という体を取りながら、小室に対する深い同情と理解を示し、わざわざ報じるメディアやいちいち騒ぐ世間に対して「よその夫婦のことは、ほっといてやれよ。一生懸命がんばってるのに」というメッセージをにじませています。